ビリー・ホリデーが気だるい声で歌う「グルーミー・サンデー」(※1)をBGMにして、徳田(とくだ)松人(まつひと)がクラセヴィッツの「戦争論」(※2)を読んでいると、机上の電話が鳴った。

「お電話ありがとうございます、徳田屋です。――ああ、あんたか。――ああ、問題ないよ。わかった。――心配しなさんな、今晩必ず行くよ」

 

 

 

 その日、松人は珍しく早めに仕事を切り上げると仕事場を出た。その足で一軒のアパートに向かい、その中の一室の前に立つと、呼び鈴を押した。インターホンのカメラから本人確認をしたのか、松人が名乗ることなく鍵が解除される。ドアを開けるとルイ・アームストロングの「ワッツ・ア・ワンダフル・ワールド」(※3)が耳に飛び込んできた。

 中に入ると住人の西園(にしぞの)(まもる)、そして福島(ふくしま)猪苗代(いなよ)栃宮(とちのみや)宇都(うと)がいた。宇都と守が台所に立ち、猪苗代がテーブルの上に食器を並べている。なんだ、俺が最後か、と言うと、松人は手早く背広を脱いで椅子の背もたれにかけると支度を手伝い始めた。

 

 

 

 四人は三年前の福岡奪還作戦(※4)の時に出会った。

 その時、猪苗代は白百合を率いる総隊長だった。

 その時、宇都は白百合の射撃訓練の教官だった。

 その時、守は白百合の身体能力に耐えられる武器製作を指揮する立場にあった。

 その時、松人は「戦闘」が白百合の心身にどのような影響を及ぼすかを調査するグループにいた。

 各人の立場はどうあれ、出会い、苦楽を共にし、以来、現在まで親交を続けている。

 

 

 

 菅野よう子の「スポッター」(※5)が流れる頃には、彼らは食事を始めていた。

――しっかし、戦争が長引いて今までできていた食事が難しくなったと思ったら、下手物と言われていた料理にスポットライトが当たって、今じゃ国民食になっているんだから、世の中ってぇのは読めねーなぁ」

 バターで炒めて塩を振った団栗を摘みながら、松人は言った。それに守が、確かにね、と答えると、ジン・トニック(※6)を一口飲んだ。

「バイオテクノロジーと地下開発技術の進歩で食料自給の心配がほぼ無くなったのに、今も家庭料理の一ジャンルとして確立しているんだもんね」

 そう言うと、マヨネーズをつけたミミズのみりん干し(※7)を齧る。

「それと、いつの間にか生き物の解体ができる人が増えましたよね」

 山葵醤油をつけた茹でエクルヴィス(※8)の身を食べ終えた猪苗代が言った。

「犬とか猫とか兎とか、哺乳類や鳥類はダメでも蛇などの爬虫類までなら大丈夫と答えた人が7割を超えた、というニュースを、何日か前に見ましたよ」

「へぇ。あ、哺乳類と言えばこんな話がありますよ」

 そう言って宇都は残ったソルティ・ドッグ(※9)を飲み干すと、守にモスコー・ミュール(※10)を頼んだ。空になったグラスを預かると、守は台所に向かう。

「で、どんな話よ?」

 醤油を垂らしたミミズのフライを咥えた状態で、松人は続きを促す。耳のピアスをいじりながら宇都は話し始めた。

「私が一時期、東南アジアの研究所にいたことは知ってますよね?」

「うん。確か、食用動植物の品種改良の研究だっけ。研究の過程で人に危害を加える変異種が生まれることもあって、自衛用に射撃の訓練をしている内に銃器の扱いも一流になった、って話を福岡にいた時に話してくれたよな」

 顎を掻きながら守がおさらい話をした。

「ええ。その後、戦況の悪化で帰国したんですけど、その時の同僚の何人かとは、事情があって離れてしまったんです。で、ある日、偶々出くわしたんですよ。その同僚の一人に」

 ここで、守が渡したモスコー・ミュールを受け取る宇都。

「思い出話とか、今どうしてるか、とかの話をしていたんですが、途中で数匹の野良猫が子供たちとじゃれ合っているのを見かけて。その同僚、犬とか猫とかが好きだ、って以前言っていたので、あ、猫だ、って言ったら、あ、そうだね、と言っただけで触れ合おうとしないんですよ」

 そこでカクテルを半分ほど飲むと、またピアスをいじりながら話を続けた。

「向こうにいた時から野良でもペットでも関係なく動物に触れ合っていたので、あれ、猫嫌いだったっけ、って訊いたら、違う、って返されて、じゃあ何で、ってまた訊いたら、黙って猫たちの方へ近づいていったんですよ。そしたら、猫たちが毛を逆立てたり低く唸ったりして凄く警戒心を剥き出しにしたんです。同僚が更に数歩進むと、猫たちは、ぱっ、と散ったんですが、同僚がその場を去ると戻ってくるんですよね。私は戻ってきた同僚に、猫に嫌われるようなことでもしたのか、と訊いたの。そしたら、心当たりがあるようで、アレかなぁ、って言ったんです。先も言ったように動物を虐待するような人じゃないんで、アレって何、と尋ねたんですね。そしたら向こうにいた時に一度、猫のステーキを食べたんですって。その時は知らずに食べて後から知ったそうなんですが。言われてよく思い返してみればその同僚、向こうにいた間動物と触れ合わない日はなかったんですが、確かにその日を境にして、その同僚が猫と触れ合っている所だけ、見なくなってるんですよねぇ……(※11)」

 

 

 

 ローリング・ストーンズの「ペイント・イット・ブラック」(※12)が始まった。

「なあ、なっちゃん。ここん所、身体の具合はどうだい?」(※13)

「それは、生物学総合研究所所長、として訊いてるんですかぁ?」

 ふざけた口調で返す猪苗代に松人は、

「まさか。友人として心配してるの」

 これもふざけたようなにやにや笑いで返した。

「んー、これといって特には」

「そりゃ何より。でも油断しないでね。ウィルスは時限爆弾みたいなものだ。今は信管が不発状態だけれども、いつ引火してもおかしくはないんだから」

「わかってます。不調を感じたら、真っ先に松さんに報せますから」

 そう言うと、猪苗代はころころと笑った。そして、

「彼女の方はどうですか? 元気に任務を続けていますか?」

 黒百合の娘のことを訊いた。

「ん、見た目は問題なさそう。でも無表情だし弱音を吐こうとしないし、健康かどうかは、一度、検査をしてみないとね。……正直さ、俺は彼女に対していつも、申し訳ない、と思ってるのよ」

 そう言うと、松人はカンパリ・ソーダ(※14)を飲み干した。

「でも同属殺しは同属でないとできない。これは黒百合である当の北海(きたみ)さんも、任務として承知済みのはずですよ?」

 そう返して猪苗代はジン・ライム(※15)を一口飲んだ。アルコールで顔が軽く赤くなっており、色気が増している。

 それはそうなんだけどさ、と松人は焼きカブトムシを指で弄った。

「頭ではわかっているんだけど、感情では、ね。でも彼女と志願者にいちいち感情移入していたら、とてもじゃないが心身がもたない。だから結果的に彼女の前ではおちゃらけたキャラを演じることになる。素直に、いつも済まないね、と言えないのが何よりつらい」

……一度、彼女に本音を吐露してみたらどうですか?」

「いや、それはできない。それをしたら心が折れて、志願者に対しても冷静に対応できなくなる。現状維持が最良の選択なんだ」

 語り終えた拍子に力が入って、弄っていたカブトムシの角を折る松人。 猪苗代はその背を、ぽんぽん、と軽く叩いた。

 

 

 

……確率の世界には『大数の法則』というものがあってね――」

 部屋にデューク・エリントンの「テイク・ザ・A-トレイン」(※16)が流れる中、スクリュードライバー(※17)が入ったグラスをぷらぷらと揺らしながら守が言った。

「ここに表裏が異なるメダルがあるとする。投げて落としたときにどちらが上になるか、というゲームをしたとき、10回投げて表3、裏7の結果が出た。じゃあ11回目はどちらが上になると思う?」

 松人は回数が少ない表、宇都と猪苗代は回数が多い裏を選択した。

「じゃあ同様に10回投げたとき、今度は裏が3回連続で出た後、表が7回連続で出た。11回目を投げたとき、どちらが上になると思う?」

 今度は松人と宇都が表を、猪苗代が裏を選択した。

「さて答えなんだが、残念だが、わからない、だ。公平な結果を出すためには表裏のデザインが異なっている上で完全に対称となっているメダルを作らなきゃならない。更にコンマ単位で変化する空気抵抗や温度、湿度、投げることで起きるメダルの微細な変形も考慮しなければいけないんだ。全てをコンピュータで管理された状態で実験したとしても、答えは出ないだろうね。……ああ、怒らないでくださいよ、ここからが本題だ」

 ここで話を切って、スクリュードライバーで喉を潤す。

「昔、ある数学者がコンピュータで同様の実験をしたんだ。最初の一回目で表か裏が出る確率は二分の一なんだけど、数学者は結果を見てるうちに面白いことに気付いた。10回行った結果のデータを10用意して比較すると、それぞれにバラつきがあったんだが、100回行った結果のデータを10用意して比較すると、なんと、標準である二分の一に近い結果となった。1000回行った結果のデータを10用意して比較すると、100回のときよりも更に二分の一に近い結果が出たんだ。この結果が『大数の法則』と呼ばれるようになったんだが、この法則のフィルターを通して世界を見てみれば、短期的、狭域的に見ると予想外な出来事が時々起きて世の中が荒れることがあるように見えるけれども、長期的、広域的に見ると貧富の差や世の不公平は変わらずあれど、結局は幸不幸や善悪といった、+−のバランスがとれている、と言えるんじゃないか、って俺は思うんだよね」

 それは机上の空論じゃないのか、と宇都が反発する。

「うん、根拠なんてない持論だよ。だからこの考えを覆させるような新しい理論が出るのを待ち望んでいるし、暇さえあれば覆そうと論理を組み立てているんだ。結局俺も、無理難題を実現させようとする夢想家(ロマンチスト)なんだよ」

 そこで残ったスクリュードライバーを飲み干した。

 

 

 

 気がつくと、久石譲の「ソナチネ」(※18)が流れている。

……私が受け持っている白百合の一人に、東堂、って娘がいるんですけどね」

 そう話を切り出すと猪苗代は、くい、とジン・ライムを一口飲んだ。

「その娘に訊かれたんです。この戦争は、どうして起きたのか」

 そこで一旦話を切って団栗を口に入れ、よく噛んで嚥下する。そして。

「恥ずかしい話ですが、わからない、としか答えられませんでした」

「仕方ないさ。きっと、この国の大人の誰に尋ねても、わからない、としか答えられないよ」

 ウイスキー・フロート(※19)を空けた守が言う。

「私がいた国でテロリストによる攻撃が頻発するようになって、こちらとあちらの協議の結果、私が働いていた研究所が閉鎖、私たち研究員が帰国して間もなくでしたよ。国外の情報が入らなくなったのは」

 そう言うと、宇都はバイオ豚の干し肉を千切って口に放り込んだ。

「そうして、あちらにいてこちらに戻れなくなった人間がどうなったかはわからんが、こちらにいてあちらに戻れなくなった外国人は、この国に一時的に帰化してこの国の人間となった、と(※20)」

 ちん、と箸で空いたグラスを叩く松人。

「政府は人手不足を解消したい。国外から来た人間はとりあえずは一般的な生活を送りたい。互いの希望が一致したわけだ」

「昔の戦争では、敵国がはっきりしていたからその敵国出身の人は戦争中、ずいぶんと虐げられていたそうですけど、この戦争が起こる直前では、世界中であらゆる国籍の人間が人が住めるあらゆる場所に混在していましたから、いわゆる国籍差別、人種差別、というのは、少なくともこの国では、特に白百合内では表面化していませんね」

 添え物のレモンを齧りながら猪苗代が言う。

「まだ黒髪に黄色肌の生徒が半数を占めていますけど、それ以外の娘も増えましたよ。金髪、銀髪、茶髪。白肌、黒肌に茶肌」

「捕虜になった敵の国籍をあえて逐一公表する、というのも差別防止に一役買ってますよね。捕虜の何人かはこの国の人間だったみたいですし。でもなんで自分の国に攻め込む作戦に参加するんでしょうね?」

 スライスポテトをつまみながら話す宇都。

……これはまだ公言できないことなんだが、」

 松人が真剣な顔で、真剣な口調で話を始めた。

「実は捕虜の何人かは常人と違う所がある、ということで何人かが研究所に送られてきたんだが、彼らは皆、脳を弄られていた

 それはどういうことか、と守が先を促す。

「どうやら脳を弄って記憶や思考に細工をし、外国の軍服を着せて戦争行動をさせることで、多国間の戦争が長期化するよう仕向けている輩がいるようだ」

「なんで、そんなことを……」

 当然の疑問を口にする猪苗代。それを見て松人は、戦争は第一に退屈に対する療法である(※21)、と言った。

「何ですか、それ?」

「旧フランスの哲学者の著作からの引用。戦争をモニターの向こうから眺めたり、軍隊をチェスの駒のように操作したりすることで、安全圏から興奮や恍惚や刺激を得ている輩がいるかもしれない、と思ったのさ」

「じゃあ、この戦争を裏から操作している人間がいるかもしれない、ということですか?」

 ややずれた眼鏡を直して問うた猪苗代に、松人は、わからん、と答えた。

「彼らの脳の手術痕と言動を見ての、ただの思い付きだよ。この考えを上層部に提出するなら、もっと、もっともっとデータが要る」

 彼が、きっとまだまだ戦争は続くだろうな、と言ったところで、ボブ・ディランの「ブローウィン・イン・ザ・ウィンド 」(※22)が流れ始めた――。

 

 

 

 

 

……ビリー・ホリデーは米国の黒人女性ジャズ歌手。人種差別時代の米国内で活躍。ジャズ史上最高の歌手の一人に数えられる。「グルーミー・サンデー」(直訳すると「暗い日曜日」)は1933年にハンガリーで発表された曲。1941年にビリーが歌った。米欧では、この曲を聴くと自殺したくなるという、「自殺の聖歌」の都市伝説として有名な曲(真偽は不明)。

 

……クラセヴィッツはドイツの軍人。「戦争論」は彼が戦争と軍事戦略について書いた物で、戦争の暴力性や形態を決める重要な要因として「政治」を位置づけている。軍事戦略を主題とする最も重要な論文の一つ。

 

……ルイ・アームストロングは米国のジャズミュージシャン。ビリー同様、人種差別時代の米国内で活躍。20世紀を代表するジャズミュージシャンの一人。「ワッツ・ア・ワンダフル・ワールド」(直訳すると「この素晴らしき世界」)は1968年にルイが歌ってヒットした曲。当時の音楽プロデューサーがベトナム戦争を嘆き、平和な世界を夢見てこの曲を書いた、という。

 

……第四次大戦初期にチャイナ大陸(この時代、中華人民共和国はとうに消滅し、大小様々な国々が乱立した状態になっている。「中国」という言葉も消え、代わりに「CHINA」が使われるようになった)から侵攻してきた国籍不明の軍隊が福岡を占領、九州全体、南西諸島、四国、本州侵攻のための拠点とした。上層部は当時救援のみに徹していた白百合部隊を迎撃部隊として急遽再編成して作戦を決行、福岡を奪還した。白百合たちが手に救護用品ではなく武器をとって戦争に参加した、最初の作戦。

 

……テレビアニメ「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」で使用されたBGMの一曲。

 

……ドライ・ジンをトニック・ウォーターで割ったカクテル。

 

……ミミズの体内のほとんどは食べた泥で満たされており、それを除くと身はかなり薄くなる。また肉質はクセがないので、メインとして調理するよりはおつまみとして調理する方が向いているそうだ。みりん干しにした場合、見た目も食感もホタテのヒモに似ている、とのこと。ちなみにこのミミズは食用に品種改良されたもので、宇都が勤務先である食品衛生研究所から持参してきた。

 

……アメリカザリガニのこと。茹でると紅白の身が鮮やかになって、見た目にも華やかな食材となる。フランスでは一般的な食材らしい。

 

……ウォッカをグレープフルーツ・ジュースで割った、塩をグラスの縁にまぶすスノー・スタイルのカクテル。

 

10……ウォッカをライム・ジュースとジンジャーエールで割ったカクテル。

 

11……ネタ元は加藤一、『禍禍』。

 

12……英国のロックバンド、ローリングストーンズの曲。邦題は「黒く塗れ!」

 

13……猪苗代は過去、ウィルスにかかって一度は強化体となったのだが、その後体内のウィルスが原因不明の不活性化を起こし、現在、彼女の身体は強化:常人=1:9の状態となっている。強化体の時の能力はほとんど失ったが身体の劣化もほとんど進んでおらず、その経験を活かして白百合学校の教官を務めている。

 

14……カンパリをソーダで割ったカクテル。

 

15……ドライ・ジンをライム・ジュースで割ったカクテル。

 

16……エドワード・ケネディ・デューク・エリントンは米国のジャズ・ピアニスト。1964年に日本で新潟地震が起きた際には、急遽東京に来日して募金コンサートを行った、というエピソードがある。「テイク・ザ・Aトレイン」(直訳すると「A列車で行こう」)の「Aトレイン」とは、NY地下鉄の8番街急行のこと。(ジャズを楽しめる町)ハーレムに行くならAトレインに乗りなさい、という意味が曲名と歌詞に込められている。

 

17……ウォッカをオレンジ・ジュースで割ったカクテル。

 

18……映画「ソナチネ」(監督は北野武)のテーマ曲。「ソナチネ」とは「ソナタ(器楽の独奏曲)」のこと。

 

19……ウイスキーをミネラル・ウォーターで割ったカクテル。

 

20……「帰化」とは国籍を得てその国の人間となること。

 

21……エミール・アラン「幸福語録」より。

 

22……米国を代表するミュージシャン、ボブ・ディランの曲。邦題は「風に吹かれて」。様々な問いかけを曖昧に濁す歌詞が話題を呼び、日本でも様々なミュージシャンがカバーしたメッセージソング。