ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
第八十六話「アルビオン再訪」「あー、……あ!」 「はあい。 何かしら、マリー?」 「うー」 自分をのぞき込む少女の手をおもちゃにして、マリーは楽しげに遊んでいる。隣に座るカトレアも笑顔だ。 「ねえ、カトレア殿。もうマリーにも、わたくしの顔を覚えてもらえたかしら?」 「ええ、もちろん。 マリーもきちんと『アン』の方を見てお喋りしていますでしょう、ね?」 室内は実に和やかな雰囲気だった。時折聞こえるマリーの声も、耳によい。 しかしリシャールは、内心で頭を抱えていた。隣に控えるアニエスやヴァレリーの顔にも、多少は緊張した様子が見え隠れしている。 今回のアルビオン行きについて、カトレアとマリーを連れて行くことは最初から決まっていた。目の前にある、城から『ドラゴン・デュ・テーレ』号の船室へと持ち込まれたソファやテーブルも、当初よりの予定されていたものだ。船内には土産として鮮魚を運ぶ生け簀も用意したし、今回の主役である七百五十丁のマスケット銃も、やはり木箱に納められて並んでいる。ついでにマスケット銃に圧されて細々と生産している新型野砲も数門積んでは来たが、こちらはまだ表に出すかどうか決めてはいない。 だが。 トリステイン王国の姫君アンリエッタの書簡を携えた王宮の女官『アン・ド・カペー』こと、身分と髪の色を隠したアンリエッタ・ド・トリステイン姫殿下本人の同行までは、まったく考えていなかったのである。 事の発端は、リシャールが王宮のアンリエッタへとアルビオン行きについて知らせたこと……で、間違いはないだろう。旅程と出発日を知らせ、その日までに書簡をお預かりできれば一緒に持っていくことも可能ですと手紙を書いたのだ。 知らせずにアルビオンに赴けば、アルビオン皇太子ウェールズと親しい仲であるアンリエッタから多少僻まれても文句は言えない。だが、手紙の一つでも預かれば、ウェールズも喜ぶであろうし、姫殿下のおぼえもめでたくなる。ここまでの判断と行動は、どこも誤っていないはずだ。 だが、第二月に当たるハガルの月中旬の出発日直前、セルフィーユへと書簡を持って訪れたのは、身分を隠したアンリエッタ本人だった。しかも彼女が携えてきた書簡は、リシャールに宛てた王后マリアンヌの手によるものである。 いつぞやと同じように髪を金色に染めて眼鏡をかけたアンリエッタから、とびきりの笑みとともに差し出された書簡を受け取ったリシャールの顔は、半ば引きつっていたかも知れない。 マリアンヌに曰く。 王宮の女官にして密使である『アン・ド・カペー』をそちらへと遣わすのでアルビオンまで同行させ、ジェームズ王並びにウェールズ皇太子と内密に会談する機会を作るよう、セルフィーユ子爵は尽力すること。 彼女は女官として経験も浅く、今回の人選には見聞を広めさせる目的もあるのでそれらにも留意するように。 また、くれぐれもカペー嬢の身の安全と環境には気を配るよう、子爵には格別の配慮を求めるものである。 追伸。 我が娘アンリエッタは体調を崩してしばらく王宮を出られないが、子爵らが帰国する頃には病も快方に向かっている『予定』である。心配は無用。 旅に出る時は、余計な荷物は持っていかない方がいいものと相場は決まっている。基本的に王命に対する反抗は許されるものではないが、断れるものなら断りたい。 だが、マリアンヌの差配は表向き、理不尽と言えるほどの無茶でもなければ、リシャールやセルフィーユ家を貶めるような内容でもなかった。預かった女官を一人、商用を兼ねた家族旅行に伴うだけの事だ。 今回のように体裁が整っている場合は、疑問を挟む余地もなく、命令を遂行することこそが自身と家を護ることになる。 それでも、カペー嬢ことアンリエッタとお付きのメイドを残して王都へと帰っていく竜篭を見送るリシャールの心中は、落ち着いたものではなかった。 マリアンヌの了承も得ているから、身分を隠しての旅行は構わない。次代の主君が若いうちに見聞を広めることは、セルフィーユのみならず王国の為にも良いことだと思える。 何かと自分が指名されるのも、ある程度は仕方のないことと理解できた。一の子分とまでは言えないだろうが、アンリエッタにとって、リシャールは私的な無理を持ち込める唯一に近い諸侯であるとも自負している。 それでも、せめて最低限の護衛ぐらいは連れてきて欲しいというのが、偽らざる本音であった。秘密裏に行われる外遊であると同時に、セルフィーユ家に対する信頼の証でもあろうが、魔法衛士隊の騎士が同行してくれれば、ここまで不安に思うこともなかっただろう。 ついでに外交に強い文官でも控えてくれていれば言う事なしだったが、マリアンヌの手紙を読むに、その役目までがリシャールに割り振られているようだった。 王命の拒否が無理なら、履行のための努力は惜しむべきではない。是非もなく、リシャールも予定外の準備に奔走した。 顔見知りのカトレアはともかく、貴族の令嬢ながらも単なる一女官だと思っているはずのジャン・マルク、ヴァレリー、アニエスにだけはこっそりとカペー嬢の正体を明かし、細心の注意を払うようにと命じた。アニエスは自家の警備から外し、二人ほど付けてカペー嬢専属の護衛ともする。 当初四、五人で済ませる筈だった同行のメイドや伝令代わりの従者も倍に増やしたし、ジャン・マルク以下の子爵家衛兵隊に加えて、領軍からメイジを三人追加した。 ついでにラ・ラメーを呼び寄せると、こちらからも人手を出すので、『ドラゴン・デュ・テーレ』の下層砲甲板に突貫工事で貴賓室『っぽいもの』と、豪華な寝室『らしきもの』を大至急設置するように命じて、リシャールは自ら陣頭に立って作業に当たった。 「今回の航海、お召し艦だと思って艦を運用して下さい。 それと、くれぐれもカペー嬢には失礼のないようにと、乗組員全員に徹底して教え込むこともお願いします。 彼女に何かあった場合、私の首一つで済まない問題になることは確実だと、心得ておいて下さい」 「ほう……?」 「あー、その……詳しくは言えませんが、彼女は……私の義父ラ・ヴァリエール公爵が跪くほどのお方でですね……」 トリステイン国内でラ・ヴァリエール公爵が跪く相手は元から限られているが、十四、五の少女となると、現在該当する相手はただ一人である。 「……なるほど、承知いたしました。 実に栄えある任務ですな、閣下?」 「ええ、実に栄えある任務ですとも、艦長」 密命とのことで皆まで口にすることは避けたが、リシャールの言いたいことは十分に伝わったはずだ。お互いに、微妙な顔つきになっていたかもしれないが、それは些細なことである。 出来る手配をすべて終えるには、出発を丸一日遅らせねばならなかった。それでも十分とは言えないが、限度もあると切り捨てるしかない。 高貴な方々が物事を動かした場合には、その下支えが欠かせないものだ。リシャールも高貴な方々とやらの一部に属するのだが、その割には忙しさは後から後からついてまわり、従者暮らしをしていた頃を懐かしく思い出すこともあった。 妻も得て娘も産まれ、領地は人口が倍する勢いで栄えと、傍目には順風満帆の人生ではあるのだが、もう少しのんびりとしていたいと考えるのは、贅沢なのだろうか。 しかし、これは自らが選び取った道でもあった。カトレアを妻にすると自らに誓った時から、避けては通れぬものと決まっていたことである。足を止めることは、絶対に許されない。 平穏な日々がリシャールの元に訪れるのは、しばらく先になりそうだった。 出発時の右往左往振りに比べて、旅程そのものは順調であった。 風石の補給に立ち寄ったラ・ロシェールで臨検こそあったものの、諸侯の持ち船に持ち主が乗り込んでいれば、取り締まる方もほぼ型どおりのやり取りで済まさざるを得ないのだろう。世間話をして船倉の点検に立ち会った折りに、マスケット銃について少しばかりの面倒こそあったが、ウェールズのサインの入った売買契約書を示すと係官は一礼して去っていった。 寄港ついでに、ロサイス行きの急ぎの荷でも募ってやれば幾分かは旅費の足しになるのだろうが、流石に自制心が働かざるを得ない。 税についてはラ・クラルテ商会が売り上げとして納めるし、それはリシャールを通じてトリステインの王政府へと貢納されることになる。国境を越えて商売をする場合に支払わねばならないとされる関税は、かける側のアルビオン王国政府が取引先であり、書類上で相殺されていた。取引の額や数量を誤魔化したり、禁制品を取り扱ったり、戦争中の相手国に武器を輸出するような真似、つまりは密輸でもしない限り咎めだてはない。 「あの、わたくし、隠れていた方がいいのかしら?」 「黙っていれば大丈夫ですよ」 アンリエッタは臨検に慌てていたようだが、リシャールは大して心配はしていなかった。 仮に王宮に問い合わせて確かめられたとしても、当人は偽名でも命令そのものは本物である。マリアンヌ直筆の命令書を持つ王宮の女官に、あらぬ疑いを掛けるような無礼は許されない。自国の中央から発せられた密命に余計な横槍を入れたとなれば、探った方が痛い目を見るはずだ。 「リシャール、帰りは寄り道しても大丈夫? 『アン』は是非、街中も見てみたいそうよ」 「少しくらいなら大丈夫かなあ。 ……マリアンヌ様も、見聞を広めさせる目的もあると手紙にお書きになられていたから、言い訳は考えなくてもいいか。 ああ、でも直前までは内緒だよ。 ぬか喜びさせておいて駄目でした、だと……僕が怒られる」 「ええ、わかったわ。 ふふ、わたしは楽しみにしていますから、ね?」 「うん」 活魚を積んでいるので長居は出来なかったが、世界樹に連なるようにフネが浮かぶラ・ロシェールの奇景は、カトレアやアンリエッタらには、大きな感銘を与えたようであった。 僅かな滞在の後、風石機関も全開にラ・ロシェールを後にした『ドラゴン・デュ・テーレ』号は、次の寄港地であるアルビオンのロサイスへと高度を上げた。夜に入っていたので白い崖を望むことは出来なかったが、翌朝リシャールが目覚めると既にロサイスへと入港していたから、随分と楽な航海であったようである。 並のフネならこうも早くアルビオンへと到着することは出来ないだろう。浮遊する大陸であるアルビオンが最もラ・ロシェールに近づく日、双月の重なるスヴェルの月夜なら、普通の商船でも近い時間でアルビオン入りすることは可能だが、生憎今夜はその日ではない。 以前に乗った戦列艦『クーローヌ』はこの距離に一昼夜かけていたが、流石は主砲を降ろしたフリゲート、中古と言えど足の速さは伊達ではなかった。多少の積み荷はあれど、一門が数百から数千リーブルの重さにもなる艦砲に比べれば、微々たるものである。 「ここがアルビオンなのね。 気持ちのいい風だわ」 「ええ、ここは風の国ですもの、アン」 「えうー」 「あら、マリーも気持ちいいのかしら?」 カトレアらの笑顔を受けてか、マリーまでもが機嫌が良いので、リシャールはにこにこと女性陣の後ろに控えていた。風はあるが、停泊中ならば彼女たちが甲板を歩き回っていても、さほど心配をするようなことはない。 ロサイスで入国の手続きと積み荷の検査を行った後、今度はロンディニウムへと進路を向ける。艦長の話では、天候が良ければ翌日の昼には到着できるようだ。積んだ魚も不安を感じさせない様子で泳ぎ回っていたから、こちらも心配しなくていい。 この分だと、ロンディニウムでは幾分日程に余裕が持てそうである。 リシャールは、少しだけ肩の力を抜いた。 翌日の昼、予定通りにロンディニウムへと到着した『ドラゴン・デュ・テーレ』号は、バーネット空港に錨を降ろした。前回は公使であったからフネも軍港であるクロイドンに降りたが、相応の理由無く外国の軍港に立ち寄ることは出来ないから、これは仕方がない。 フネのことはラ・ラメー艦長に一切を任せて、リシャールは滞在と取引の準備に取りかかった。 従者を走らせて前回と同じく『獅子の心』亭に宿を取り、馬車を雇ってカトレアとマリーとアンを侍女や衛兵隊とともに送り出し、ハヴィランド宮にもマスケット銃を納品に参じましたと連絡をつける。こちらに来たのに知らせないのも失礼かと、自国の大使クーテロ男爵と、懇意にしているブレッティンガム男爵エルバートにも知らせを送っておいた。 リシャールはそこまでの手配を済ませてから鮮魚の様子を確認し、アーシャに騎乗して悠々と『獅子の心』亭の庭へと降り立った。カトレアらはもう宿に入っていたようで、衛兵の出迎えを受ける。 だが外套を脱いで部屋に入る前に、お客様がお待ちですとメイドに呼び止められた。慌てて気を引き締める。 「セルフィーユ子爵、遠路ようこそ。 お久しぶりですな」 「クーテロ大使、わざわざお尋ねいただきましてありがとうございます」 アルビオン駐在の大使であるクーテロ男爵には、前回のアルビオン行きでも世話になっていた。時間を考えれば、彼は連絡がついてすぐこちらへと駆けつけたようで、少々申し訳ない気分でもある。 「いやいや、子爵のおかげにて、幾分アルビオンとの関係も良くなりましたからな。 御礼も兼ねております故、お気になさらず。 今回はご家族もお連れになってのご旅行とのこと、少しはゆるりと時間を取られるのかな?」 「ええ、ウェールズ殿下とのお約束さえ果たせれば、後は気楽に観光などをさせていただこうかと考えております」 「うむ、存分に楽しまれるがよろしかろう。 ……それはそうと子爵」 「はい?」 「『アン・ド・カペー』殿のご様子はいががかな?」 クーテロは、何気ない様子で驚くべき事を口にした。 先ほど送った知らせには、滞在先であるここ『獅子の心』亭の名こそ書いたが、後ほどこちらより挨拶に伺うといった内容に留めてあった。『アン』の事など、一切書いてはいない。 「……はい、ご公務はともかくも……旅そのものは楽しんでいただいていると思います」 「ふむ。 それは結構なことですな」 リシャールは身体をこわばらせつつも首肯した。たが同時に、幾分かの安堵も感じていた。 王宮とて馬鹿ではなかったのだ。 リシャールはもちろんアンリエッタにも知らされていなかったが、アルビオンの王都ロンディニウムに駐在するクーテロ大使にも、王女のアルビオン訪問は決定と同時に連絡されていた。無論アルビオン王政府にも、大使を通して渡航の時期などの詳細が伝えられている。当人らの与り知らぬ部分では、十分な配慮がなされているのだ。 他にも、セルフィーユの向こうにあるゲルマニアのハーフェンからラ・ロシェール、そしてアルビオンのロサイスにかけてを結ぶ空路にも、平時に倍する空海軍の艦艇が密輸の臨検や航路警備と称して忙しく動き回っていた。 表向きは、討伐作戦中のガリア航路から、海賊空賊が流れ出ないように封じ込める作戦の一環としてある。だがこれは、明らかにアンリエッタの安全を確保するための努力であった。 「子爵、大使館はアン・ド・カペー殿の外遊について、最大限の努力をもって支援するよう命じられておりますのでな。 些少なことでもお知らせいただければ、何とはなくお力添えをさせていただきますぞ」 「はい、大使殿。頼りにさせていただきます」 あくまでも影に徹するように命じられているのだろう。クーテロ大使はアンリエッタの元を訪れることなく、従者のなりをした大使館員をリシャールに預けて去っていった。 「さて、ここからが本番かな……」 大使と入れ替わるようにしてハヴィランド宮に向かった従者が使者らを伴って戻ってきたので、リシャールは頭を切り換えた。 『獅子の心』亭を出た馬車の列は、前後に騎士を付けられて一路ハヴィランド宮へと向かっていた。ウェールズは即時の登城を求めていると、使者から告げられたのだ。 どうやらウェールズにもアンリエッタ来訪の知らせが届いているようだと、リシャールはすぐに気付いた。 「『アン』、お城の人々の前のみならず、ウェールズ殿下の前でも、人払いされるまでは『アン・ド・カペー』のままでいてくださいね?」 「わかっていますわ。 もう、リシャールったらラ・ポルトみたい」 少々お冠なアンリエッタに苦笑しながらも、言うべき事だけは言っておかねば旅そのものに支障を来しかねないと、リシャールは再三注意を促していた。侍従長になぞらえられるなら、大したものである。 「リシャール、わたしとマリーは席を外していたほうがいいのかしら?」 「あー?」 呼ばれたと思ったのか、マリーがカトレアの方に手を伸ばしている。可愛いが、今はそれを楽しんでいる場合ではない。 「ウェールズ殿下次第だけれど、カトレアはともかく、マリーは挨拶だけにしておいた方が無難かなあ。 お忙しいようなら僕もご挨拶とご報告だけを済ませて、あとは大人しく帰るつもりだよ」 マスケット銃も土産の鮮魚も、『ドラゴン・デュ・テーレ』に積んだままである。 荷馬車を雇うにしても量が多かったし、錨を降ろしたバーネットから距離があるのなら、フネを動かして指定された場所へと直接荷を降ろしに行く方が楽だったから、問い合わせる形にしておいたのだ。しかし、使者は荷のことについて何も聞かされておらず、もしかするとウェールズの方でもマスケット銃のことを忘れるほど舞い上がっていたのではないかと、口に出せない疑問がリシャールの脳裏をちらついて離れない。 それはすぐ確信へと変わった。宮殿に入ってしばらく、車止めの向こうにエルバートを従えたウェールズの姿を見つけたのである。 常識的には、例え隣国の王を城に迎える場合でも、王族自らが車止めまで迎えに出たりはしないものだ。 喜色満面のアンリエッタを横目に、リシャールは小さくため息をついた。 「無事にお子さまがお産まれになったのですな、おめでとうございます」 「はい、ありがとうございますエルバート殿。 前回のアルビオン訪問の直後ですから、丁度四ヶ月ほどになります」 満面の笑みで祝福されては、照れくさいながらもこちらも笑顔でかえすのがたしなみというものだ。 「ふふふ、リシャール殿も、やはり世間で言う親馬鹿になられたのかな?」 「うーん、難しいところです。 全力で頑張ってはいるのですが、祖父や義父にはまだまだ及びません」 「なるほど、それは手強そうです。 ご健闘をお祈りいたしましょう」 挨拶と共に祝いの言葉をリシャールらにかけた後、ウェールズはアンリエッタと二人してマリーに構いつけていた。 「うむ、どれどれ……元気いっぱいじゃないか。それに将来は奥方に似て、さぞ美人になるだろうね」 「ですわね。 そうそう、マリーはわたくしの顔も覚えてくれたんですのよ」 「あうー?」 マリーはあまり人見知りをしない方だが、ウェールズらにもよく笑いかけている。 赤子だからこそ周囲の機微に敏感なのかも知れないが、この場を和やかにさせたのはマリーのお手柄でもあった。もちろんウェールズやエルバートとは初対面だが、皆の楽しげな様子は十分マリーに伝わっているらしい。 「では、アン……おほん、失礼、密使殿にはこちらへ。 リシャール君、申し訳ないが後はエルバートに任せてあるから、宜しく頼むよ?」 「はい、殿下」 「リシャール殿と奥方様、マリーお嬢様はどうぞこちらに。 ご案内いたします」 早々にアンリエッタをウェールズにかっさらわれてしまったが、身辺を安堵するという意味では、王城以上の場所はない。 ……別の意味で心配事もあったが、リシャールはその責任の所在を当事者に丸投げすることに決めた。どちらにせよ、この場では知らぬ存ぜぬを決め込む以外によい手はないのだ。二人の自制心に期待するしかない。 リシャールはウェールズ付きの騎士にアニエスと姫殿下付きの侍女を預け、城の内奥へと案内されていくアンリエッタを見送ってから、エルバートに先導されて大階段を上った。 「あの、エルバート殿?」 「はい?」 「この後は今回の商用について、お話をさせていただくのですよね……?」 マリーを抱いたカトレアを気遣いながら、リシャールは頭に疑問符を乗せていた。 案内される先は応接間か実務担当者の執務室だろうと思っていたのだが、それにしては階段を昇りすぎているのである。トリスタニアの王城を思い浮かべるならば、そこはもう王家の私的な空間がある位置だった。 「いえ、それは後ほど。 まずは陛下がお待ちになられていますからな」 ああやっぱりそうなのかと思いつつ、リシャールは襟を正した。 ←PREV INDEX NEXT→ |