IS<インフィニット・ストラトス>SS
「セシリア・オルコットの乙女な一日」




 自分の部屋、自分のベッドの上。
 なのに心は落ち着かない。
 肩の触れ合う距離に、彼が座っているからだ。
「セシリアの髪って、さらさらなんだな」
「も、もちろんですわ。
 身だしなみに気を使うのは、女の子の常識でしてよ」
「ふーん」
 髪越しに、彼の手がさらりと背中に触れる。びくんと身体が跳ねるのを押さえるのは、セシリアには無理だった。
「おー、柔らかいなー」
 彼の手には遠慮がない。今は二の腕をふにふにと弄《もてあそ》ばれている。
 他の誰かがそのようなことをしたならば、セシリアも怒るなり逃げるなりしているはずだ。仮に男性だったならば、ISを部分展開しての即時殲滅も選択肢に入るだろうか。
「は、恥ずかしいのでやめて下さいまし……」
 彼に触れられるのは、嫌じゃない。
 それでも軽い抗議をしたのは、嬉しさが入り交じりつつも恥ずかしさが上回っていたからだ。
「嫌だ」
 そのまま抱き寄せられて、自由を奪われてしまう。
 そして、二の腕にキス一つ。
「セシリア……」
 そのまま彼の顔が、唇が……。

「夢……でしたの?」
 セシリア・オルコットの朝の目覚めは、悪くない方だ。
 今日に限って、とは言わない。
 昨日の夢は、食堂で彼とデザートを食べていた。一昨日は母国にある屋敷の庭を、二人きりで散歩していたように思う。
 残念なことに、キスの手前より先に目覚めが来てしまうことだけが悔いだが、こればかりは眠りの神《ヒュプノス》の気分次第であった。
 少々恨めしくは思っても、セシリアには打つ手がない。寝る前に良い夢を願って、秘密のおまじないを口にするぐらいである。
「はぁ……」
 いつの間にか枕にしていた右腕をそっと引き抜いて寝汗を拭うと、セシリアはシャワーを浴びるべく、ベッドを降りた。
 
 朝はそれほど時間があるわけではない。
 肌に磨きをかけるのは夜だからと自らに言い聞かせ、つい念入りにしてしまいがちな肌手入れを切り上げると、さっとボディソープを流し終え、シャワールームを後にする。
 だが、髪を乾かすついでにふと見た鏡の中で、右の二の腕に唇の後を見つけた。
 どうやら夢見心地で自らつけたらしいと、セシリアは赤くなった。
 夢が先なのか、それともキスマークが先なのか?
 答えの出せない疑問が、セシリアの頭の中を駆けめぐる。
 しかしそれは、脳裏の大半を占めた彼の顔、そしてその力強い唇に、瞬く間に追い出されてしまった。
 朝から自分は何をやっているのだろうと、軽い自己嫌悪に陥る。
 思い浮かんだ彼の姿をうち消そうとする努力は、いつも無駄に終わるのだ。

 クラス中で、学校中で、否、世界中でただ一人の男性のIS操縦者だから?
 いいえ。

 一次移行《ファースト・シフト》も済ませていない機体で、代表候補生にして専用機《ブルー・ティアーズ》持ちの自分に比肩する実力を見せたから?
 ちがう。

 知り合ってほんの数日にしかならないのに、気がつけば彼のことを見ているから?
 ……恋に時間は関係ない。

 じゃあ、『家族を守る』と言い切った彼の瞳が、余りに強烈な印象だったから?
 ……。

「ほんと、わたくし朝から何を……」
 余計な自問自答に時間を使ってしまった。慌てて制服に着替える。
 私物の鏡台の前にいるのは、もういつもの自分だ。隙のない身だしなみをした、昨日と変わらない自分だった。
「……はふう」
 輝きに気を使う長い金髪も、皺のない制服も、きゅっと形よく結んだタイも。
 そして、薄いルージュをひいた唇も。
 隙は……ありませんわよね?
 それでも何か足りない気がして、セシリアはもう一度ため息をついた。

 少し早めに食堂へと向かったセシリアだが、残念ながら今朝は彼を発見できなかった。なるべく合わせようと努力はしているのだが、彼の方の誤差が大きすぎて偶然を装えないのだ。
 結果、早めに食堂へとたどり着いて、せめて彼の姿を見逃さないようにとする作戦に切り替えざるを得なかった。
 それにしても……。
「ようセシリア、おはよう!」
 びくんと、夢の中の自分と同じように身体がはねるのを、セシリアは止められなかった。
 急に後ろから声をかけないで欲しい。出来れば心の準備を済ませて、こちらから彼に声をかけたいのだ。
「お、おはようございます、一夏さん」
「お、おう。
 わりい、びっくりさせちまったか?」
「いえ、だ、大丈夫ですわ」
「うん、そうか……?」
 均整のとれたそこそこの長身に、見る人が見れば格好良くも優しげにも見える顔立ち。そして、力強い目元。
 彼が数日来セシリアを悩ませている、織斑一夏その人だ。
「一夏、お前は女性に対するデリカシーが致命的に足りなさすぎるのだ」
 敢えて気付かない振りをしていたわけではないが、非常に残念なことに、篠ノ之箒も一緒だった。
「……おはようございます、篠ノ之さん」
「……う、うむ、おはよう」
 真っ直ぐに見据えて挨拶を交わすが、決して朝一番から会いたい相手ではない。
 彼女は恋敵《ライバル》なのだ。
 もっとも、クラスの大半が恋敵《ライバル》予備軍であることを考えれば、誰もが似たようなものなのではあるが……。
 だが彼女は、この争いに於いては一歩も二歩も抜きんでていた。
 幼なじみな上に、許し難いことには、現在一夏とは同室で寮生活を送っている。
 情報通のクラスメートが噂していたが、一夏と篠ノ之箒が暮らしている一〇二五号室は、影で特等室《インペリアル・スイート》と呼ばれているらしい。上手く名付けたものだ。確かに彼と同室で過ごせるならば、そこはまさに最高の一室《インペリアル・スイート》であろうから。
 しかしセシリアは、箒にも他の誰にも負けるつもりはない。恋心の中の、僅かにある冷静な部分で状況を分析すれば、今のところは彼女と自分が一夏争奪戦《レース》に抜きんでている『筈』だ。セシリアの立ち位置は、悪くないのだ。
 IS学園の生徒として、代表候補生という立場にはそれだけのものがある。彼も同じく専用機持ちでもあり、訓練や相談事には彼女に対して明らかに優位な差《アドバンテージ》が見込めた。これを活かさない手はない。
 自分が譲ったにせよ、彼はクラス代表でもあった。未だ未知数で経験の浅いクラス代表を鍛えることは有意義であるし、セシリアは訓練を通して一夏の得意とする、そして自らは苦手な近接戦闘を上手く捌けるようになれば、それは自身の向上にも繋がるのだ。お互いを高めあえる関係は、理想的な未来を導くだろう。
「おう、時間なくなるぞ?
 お前らもお見合いしてないで、さっさと並べよ」
「う、うむ」
「ええ……」
 先に視線を外した方が負けな気がしたから、彼女から目を逸らさなかったのかもしれない。
 サバンナやジャングルの掟にも似た何かが、そこには確かにあるのだ。
 それにしても……。
 日本の男は、普通、こうも鈍感なのだろうか? それとも一夏だけが特別なのだろうか?
 セシリアは、また一つため息をついた。
 横を見ると、箒も同じタイミングでため息をついている。
 非常に不本意だが、彼女もセシリアと同様の内心を抱いているのかも知れなかった。

 絞りたてのフレッシュジュースは望むべくもないが、濃縮還元果汁一〇〇パーセントのオレンジジュースにトーストとベイクドビーンズ、それにベーコンを添えた朝食を終える頃には、歩いて教室にたどり着くには少々心配な時間になっていた。
 一夏の隣で食べる朝食は良いものだが、これは唯一に近い欠点である。彼や箒がのんびりとしているわけでも、セシリアがささやかな幸せを味わうために、故意に時間を引き延ばしているわけでもない。
 彼は知り合いを見つけると挨拶をし、また挨拶を返され、雑談に発展しと……気がつけばこの時間になってしまうのだ。
 彼は鈍感な癖に、少しばかり女性に甘すぎるところがあった。乙女心を持つ身としては、複雑な気分にさせられる。
 恋敵予備軍の人数が多すぎることも原因だが、その気持ちも多少は理解できるだけにとやかくは言えないし、礼儀には礼儀を以て応えるべき、とも思う。自分も挨拶されて、無視を決め込むようなこともしない。
 ただ、少々慌てながらも、彼と一緒に小走りで教室へと向かうのは、ほんの少し楽しかった。箒が一緒に走っているのは気にくわないが、これはお互い様だ。
 廊下で追い抜いた織斑教諭には軽く睨まれたが、こちらも些細なことである。
 朝のSHR《ショートホームルーム》後に授業が始まると、真面目な態度で織斑教諭と個人端末に思考を割り振りつつも、今度は視界から外れることのない一夏の背中が気になって仕方がない。彼の席は教卓の前《特等席》なのだ。
 彼ももちろん、真面目に授業は受けている。しかし、その背中が語る彼の内心は、とてもわかりやすいものだった。
 納得がいった時にはうむと頷いて背中が揺れるが、今ひとつ理解が及ばなかった場合などは、肩が左右に揺れて教科書を読み返したり端末からデータを呼び出したりしていることがすぐにわかった。
 嘘が苦手で。少しだけ不器用で。まっすぐで。
 それだけが理由ではないが、見ていて飽きない。
 もう少し距離が近いなら、表情もよく見えるのにと残念に思う。
 あるいは、彼がちらっと横を向いてくれたり。
 あるかどうかもわからない席替えに期待を寄せたりもするが、彼の隣《特等席》はさぞや競争率が高いことだろう。 
「はぁ……」
「どうした、オルコット?
 『教卓の手前』に何かあるのか?」
「はっ!?
 い、いえ、その、な、なななな何でもありませんわ織斑せんせ……痛っ!?」
 いつのまにか真横に回り込んでいた織斑千冬から、人の悪い笑みと共に出席簿の一撃がセシリアの脳天へと飛んできた。
 このような注目の浴び方など、不本意極まりない。なにせ、教卓の手前にいるのは一夏なのだ。くすくすと漏れ聞こえる笑い声に、ますます赤くなってしまう。
 セシリアが一夏に気があることは、隠すまでもなくクラス全員に知られていた。だが、そのことを論《あげつら》ったりからかったりする者は居ない。多かれ少なかれ、一夏は非常に好意的な意味で注目を集めていたし、ほぼ全員が同じ穴の狢《むじな》では自分の首を絞めることになるのだ。
「まあ、気になるものは仕方がないが、もう少し授業に集中しろ。
 ……お前達もな?」
 教卓への戻りがてら、彼女はぽこんぽこんと軽めの出席簿《ハンマー》を生徒に食らわせていった。
 織斑教諭《彼の姉》には、全てお見通しらしい。
 自分だけではなかった、と安心は出来ない。彼女たちは即ち、恋敵予備軍でもある。
 だから、ちらりと視線を送られてこっそりとサムズアップなどをされても困るのだが、お互いに出席簿《ハンマー》を受けた者同士多少の共感があると気付いて、悪い気はしなかった。
 しかし、このもやもやとした気持ちはどうにもし難い。
 セシリアは授業に集中して彼の方に視線を向けないように、意識を切り替える努力をした。
 ……無理だった。

「あれー?」
 実技の授業に入る直前、それは起こった。
「……私がどうかしまして?」
「オルコットさん、それ……キスマーク?」
「「「「えええええ!?」」」」
 クラスメートが指を指しているのは、セシリアの二の腕だった。
 そこにあるのは、今朝夢の中で一夏につけられたキスマークである。つけたのは夢心地で寝ぼけていた自分だろうとは思う。だが、せっかくならば夢の中の一夏であると思いたい気分もあった。
 しかし今はそれどころではない。着替えの関係で授業開始ぎりぎりに駆けてくる一夏以外の視線が、セシリアに注がれていた。
「うわ、セシリアやるー!」
「ね、ね、相手は誰!? やっぱ織斑くん?」
「ちょ、ちが……これは、寝ぼけて……」
 妙な方向に話が走りそうになり慌てて否定するが、彼女たちは止まらなかった。乙女パワー全力全開である。
「寝ぼけた織斑君がつけたの?」
「うっわー……」
「おりむー、やるときはやるもんだねー」
「そ、そうではなくて……ああん、もう、話を聞いて下さいまし!」
「馬鹿者共、静かにせんか! 授業を始めるぞ!」
 織斑教諭の怒声に全員が慌てて整列する。
 いつの間にか、一夏だけではなく教師達も揃っていたから、誤解は解けることなく棚上げにされてしまった。次の休憩時間は大変だ。
 前の方では、ちらりと聞こえた自分の名前に不思議そうに首を傾げていた一夏が、出席簿《ハンマー》の犠牲になっている。
 少しだけ可哀想な気もしたが、彼と噂になったこと自体は嬉しいことでもあった。
「では、前回のおさらいだ。空中での機動とその応用。
 織斑、オルコット、ISを起動しろ」
「「はい!」」
 気持ちを切り替え、イヤリングに意識を向けて瞬時にブルー・ティアーズを起動させる。ちらりと視線を向けると、一夏も前回よりは素早く白式をまとっていた。
 セシリアから見てもまだまだだが、彼は間違いなく成長している。何かと理由をつけて放課後も練習につき合っているが、楽しい時間……はともかく、彼は侮れなかった。自分《ブルー・ティアーズ》と篠ノ之箒《打鉄》に時間いっぱいたっぷりと追い回されても、『疲れた、もう勘弁してくれ』と愚痴を一つこぼすだけで、直後にはもうやる気も十分に『次は負けない』と、機動特性のステータスや訓練データを呼び出していたりする。
 彼はどこまでもまっすぐで、前向きなのだ。
「お前たちは、得意な距離が違うからな。
 時間は三分、武器はなし。フィールドは演習場の中心から直径百メートル、高度二百メートルの円筒に設定。
 ふん、オルコットは中から遠距離、織斑は至近。……基本は追いかけっこになるが、フィールドも無限大ではないから駆け引きが重要になってくるぞ。
 懐に入れば織斑の勝ち、逃げ切ればオルコットの勝利だ。
 相手に得意な距離をとらせるな。
 他の者には見取り稽古になるが、解説を振る場合もあるから二人の動きから目を離すなよ。
 実戦訓練に入れば活きてくるはずだ」
「「「「「はい!」」」」」
 二人だけの時間が、始まる。

『両名とも準備はいいな。
 ……では始め!』
 開始直後、一夏《白式》は真っ正面からセシリア《ブルー・ティアーズ》へと突っ込んできた。工夫も何もないが、互いの手に武器はないから、今回に限っては悪い手ではない。
 セシリアは一夏に背を見せず、そのまま球を描くようにフィールドのラインぎりぎりを飛んだ。徐々に加速を弱め、追いつかれる直前で白式をかすめて反対方向に逃げ、地上すれすれで制動をかける。
「あ、ずりい!」
「地形の利用は基本でしてよ、一夏さん」
 セシリアの知る限り、地中に潜行するISはいない。少なくとも空中よりは、回り込まれる方向を限定することが出来る。乱戦向きの機動であり、一対一《マン・トゥ・マン》ではあまり意味のある機動ではないが、この一戦に限定すれば効果もあった。
 一夏は地上付近が少々苦手なのだ。これまでも放課後の訓練中に、躊躇してブルー・ティアーズの的になったり、打鉄の斬撃の餌食になったことが再三あった。
 彼は数日前アリーナに大穴を開けたように、細かい機動制御に難がある。……その割に空中ではビットの位置や動きを的確に読んで本気のセシリアに肉薄してしまうあたり、単に意識の問題であるのだろうと想像がつく。
 彼も少しはISに慣れたようだが、負ける気はしない。代表候補生として数々の勝負をこなしてきたセシリアには経験《一日の長》があった。
 空中ではスラスターとPIC《パッシブ・イナーシャル・キャンセラー》のみで機動を行うが、地上付近では地面を蹴るという第三の要素を加えることで、トリッキーな動きで相手を翻弄することもできる。
 一夏にはまだ早いかも知れないが、見せて損はない。
 多分彼は、文句を言いながらもいつの間にかそれを身につけるはずだ。
「くっそぉ!」
 一夏はやや速度を緩めて地上に降りると一転、セシリアへと向かってきた。降りてしまえば、彼も躊躇わない。切り替えが上手くいっていないだけなのだ。
 無意識かも知れないが、白式はきちんと地面を蹴って動き回り、こちらの逃げる先に回り込もうとしていた。
「でも……まだまだですわ」
 若干速度を緩めて隙を作り、白式の瞬時加速《イグニッション・ブースト》を誘ったセシリアは、地面を利用してくるっと倒立反転、いなすように一夏をかわして背後を取った。
「うおっ!?」
「うふふ……ばーん!」
 指鉄砲を一夏の背中に向けると、再び上空へと舞い戻る。銃声の口真似はサービスだ。
「一夏さんは思考も機動も真っ直ぐすぎますわ。
 もっとフェイントやトリックを混ぜませんと……」
 一夏が空中へと戻ったのを確かめて、セシリアは空中で静止した。残り時間は半分を切っている。
「仕切直しです」
「いいぜ。
 今度は追いついてみせる!」
「ええ、いつでもどうぞ?」
 にこっと笑ったセシリアは、ゆっくりと右サイドへと機体を滑らせた。
 少し迷った様子を見せた一夏は、それでも真っ直ぐにこちらへと向かってくるようだ。
 先ほどと同じように、フィールドのライン付近を円軌道で逃げるが、今度は徐々に高度を上げる。
 このまま時間まで逃げても追いつかれることはないだろうが、それでは余りに面白みがない。
 一夏も素直に引っかかりはしないだろうがと思いつつ、十分に引きつけると、セシリアは急角度で地上に向けて降下した。当然、一夏もこちらを追ってくる。
 チキンレースでもあるまいが、速度を緩めれば追いつくことが出来ず、無理な加速すれば地上に激突する確率が増える。
 慣れた機体《ブルー・ティアーズ》と慣れた操縦者《セシリア》ならば、限度を正しく把握してぎりぎりのタイミングで減速シークエンスを行えるが、一夏と白式はそうではない。
 どうかしらと、セシリアは視線を転じた。
「えっ!?」
 近い。
 ほぼ真後ろ、数メートルの距離に一夏はいた。
 セシリアのいる方向、つまりは地表に向けて瞬時加速《イグニッション・ブースト》をかけたらしい。
 一夏さんは、馬鹿だ。
 セシリアは瞬時に位置取りを変更し、機体を傾けてぎりぎりで地表との激突を避けた。そのままアリーナの広い方に向けて離脱する。
 数瞬後、多分一夏と白式は先日のように大きな穴をアリーナに開けるだろう。ISには絶対防御が働くから彼の命に別状はないだろうが、また織斑教諭に怒られてしゅんとするかもしれない。慰めるぐらいはしてあげようと、セシリアは機体の姿勢を戻した。
 案の定、大きな音とともに土煙が上がる。
 だが、土煙の中から白式がこちらに向かって来るのは予想外だ。
 一夏は真っ直ぐにセシリアを見つめ、にやりと笑ってこちらに突っ込んできていた。ハイパーセンサーの警告は手遅れに等しい。
「……えっ?」
 どきっとする。
 自分を見つめる、真っ直ぐな瞳に。
 おかげでもちろん、回避は間に合わなかった。
 少し慌てた様子の一夏が瞼に焼き付く。
「きゃああああああああああ!?」
 強い衝撃を受け、ごろんごろんと幾度か転がった。……気がする。
 絶対防御のおかげで怪我こそないが、機体は後で重点検だろう。
「わりい、大丈夫か?」
「え、ええ……」
 完全停止。
 それを確認し、ブルー・ティアーズを収納《クローズ》してぺたんと座り込む。同じく白式を収納《クローズ》した一夏がのぞき込んできた。
「……」
 顔が近い。その距離、目測で約二十センチ。
 転がったおかげか、半ば抱き合うような格好になっていたのを今更に思い出し、真っ赤になる。身体はほぼ密着していたはずだ。
 それでも、何か言葉を紡がないと息が詰まりそうな気がして、セシリアは口を開いた。
「い、一夏さんこそお怪我はありませんか?」
「俺か? 俺は大丈夫だぞ」
 二度目だからなと胸を張る一夏が、何故かとても眩《まぶ》しくて、セシリアは視線を逸らした。
「立てるか、ほら」
 きゅっと腕をつかまれ、立たされる。ちょっとどころではなく惜しい気はしたが、一夏は強引にセシリアを立たせてしまった。
 箒ではないが、一夏にはもう少しデリカシーをもって欲しい。
「ん?」
「はい?」
 一夏の視線は、セシリアの二の腕に注がれていた。
「……ごめん、痣になってるな」
「えっ?」
 そこにはもちろん、小さなキスマークがついたままになっている。
「あ、これは、その、ち、違うんですのよ一夏さん。
 これは……」
「一夏、怪我はないか?」
「織斑、オルコット……まあ無事ではあるか」
「二人ともだいじょーぶ?」
 弁解の間もなく、織斑教諭、そして篠ノ之箒を筆頭にクラスメートらに囲まれる。
 二人の時間は終わってしまったようだ。
「そういえば、織斑」
「はい、織斑先生?」
「お前、あれはどこで覚えた?」
「あれ?」
「終了直前、加速降下《ブースト・ダイブ》からの一連の機動だ」
 ふん、と織斑教諭は一夏を正面から見据えた。
「えーっと……さっきちょっと思いついて、実践してみたんです。
 追いつくのに瞬時加速《イグニッション・ブースト》して、地上への激突回避には逆方向へ同じく瞬時加速《イグニッション・ブースト》をかけて速度を相殺しました。
 ブルー・ティアーズ《セシリア》の逃げた方向は見えていたので、着地と同時に地面を蹴り飛ばしてもう一度瞬時加速《イグニッション・ブースト》をかけました」
 セシリアはまじまじと一夏を見つめた。
 恋心やときめきなどはとうに吹き飛んで、IS操縦者としての目になっている。
 口で言うほど、容易い機動ではないはずだ。
 最初の加速はともかく、減速と方向転換のタイミングなどは一朝一夕に出来るようには思えない。野生の感で動かせるほど、ISは単純な代物ではない。
 ……いや白式は、イメージ・インターフェイスによる機体制御のコントロールを以て、一夏の思い描いた機動を忠実に再現したのだろうか?
「ふん、お前が素人同然だったからからよかったものの、あれは機体と操縦者への負担が大きすぎる。
 特に瞬時加速《イグニッション・ブースト》を瞬時加速《イグニッション・ブースト》でうち消すのは最悪に近い。
 慣れていない今だからまだいいが、コアとお前が機体制御に慣熟してくれば、当然瞬時加速《イグニッション・ブースト》も機体と操縦者の限界まで速度を上がることになる。
 ……計算と経験に裏打ちされて、PIC《パッシブ・イナーシャル・キャンセラー》の限界近くまで調整された瞬時加速《イグニッション・ブースト》状態での逆方向への瞬時加速《イグニッション・ブースト》など、自殺行為そのものだ。
 ISとて万能ではない。
 ……『絶対防御』は、過信するな」
「はい……」
 今は落ち込んでいる一夏だが、しばらくすればまた前を向くだろう。
 それが楽しみで、くすりとセシリアは笑った。
「ところでオルコット」
「はい?」
「腕の痣はどうしたんだ?」
 寝ぼけて自分でつけたと言うのが恥ずかしく、セシリアは俯いた。先ほど追求を中断させられたクラスメイトたちが、今か今かと聞き耳を立てているのもよろしくない。
「先生すいません、たぶん、俺のせいです」
「「「「「ええええええーっ!?」」」」」
 さっき巻き込んだ時に、と続けようとしたであろう一夏の言葉は、当然ながら大きな嬌声に飲み込まれてしまった。
 一夏は先ほど彼の姉が述べた『絶対防御』の意味するところに、気がついていなかったようである。

「はふう……」
 朝からさんざんな一日だった。
 身体も心も、疲れ切っている。
 シルクのナイトウェアに着替えたセシリアは、少々はしたないとは思いながらも、そのまま天蓋のついたベッドに身体を投げ出した。
 このまま寝落ちるだろうとの予測は、たぶん真実だ。
 実技授業の後もクラスメイトから大いにからかわれ続けたセシリアは、ごっそりと気力を奪われながらもなんとか誤解だけは解いてまわった。
 座学は身に入らず、ランチは一夏の隣に座っていたことは間違いないが、何を食べたのかもよく覚えていない。
 放課後の訓練では、余裕で勝てる筈の一夏相手に三戦二敗。
 あげく寮に帰る途中、何もないところで転んでスカートの中身を一夏に晒してしまう始末。
 その場は逃げ出したが、顔をあわせるのが恥ずかしくて夕食は諦めた。
「一夏さんは、ほんとうにもう……」
 今日は寝起きから一日中、一夏に振り回されていたようなものだ。

 彼はずるい。
 わたくしの気持ちに気付かないところがずるい。
 何気ない言動で、わたくしの心をかき乱すところがずるい。
 その顔を思い浮かべると、わたくしの心が暖かくなるのもずるい。

「おやすみなさい」
 ……一夏さん。

 そのまま目を閉じたセシリアは、一夏の顔を思い浮かべておやすみのキスを中空へと投げかけた。
 夢見のよくなるおまじないだが、それほど馬鹿にしたものではない。
 効果の程は、実証済みである。

 セシリア・オルコットの目覚めは、悪くない方だ。
 おまじないをした日に限って、とは言わない。

 だが、夢見と寝起きはともかく、現実は乙女に対して実に非情だった。
 そう日をおかないうちに、強敵篠ノ之箒に加えてセカンド幼なじみや男装の麗人、現役の特殊部隊隊長までもが一夏争奪戦《レース》に参戦し、更に混戦模様を見せて状況が複雑化してしまうなど、セシリアには思いもよらなかったのである。




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