ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
第八十九話「責任」




「総員戦闘配置! 非戦闘員は艦内へ! 砲門はまだ開くな! 急げよ!!」

 ラ・ラメー艦長の怒声に、皆が弾かれたように走り出す。
「ビュシエール! 砲員は艦尾の二門と後は左舷に集めろ!
 撃たんとは思うが砲戦下令後の指揮は任せる!」
「了解!」
「伝令! 宛、機関室!
 『命令あり次第、三秒だけ風石機関を停止せよ』! 復唱!」
「復唱! 宛、機関室、『命令あり次第、三秒だけ風石機関を停止せよ』!」
「よし、行け!
 それからもう一人貴賓室に走れ! フネが揺れると伝えろ!」
 他にも幾つか細かな指示を出し終えたラ・ラメーは、制帽をかぶり直してリシャールを振り返った。接触までは今しばらく時間があるようだ。
「閣下、ここで観戦なさいますか?
 ……とは申しましても、今日のところは尻に帆かけて逃げるだけの予定でありますが」
 ラ・ラメーは、空賊を見つけたからと見敵必戦を叫んで猪突猛進するような人物ではない。単なる猪武者が名艦長などとと呼ばれようはずもなかった。
 この航海では『アン・ド・カペー』の無事こそが最も重要だということを、リシャールもラ・ラメーも十分に理解していた。もちろんマリーやカトレアは大事だが、少し意味合いが違う。
「ええ、見せていただきましょう」
 リシャールは緊張で頬肉がかたくなっていることを自覚しながらも、ラ・ラメーに頷き返した。
「それから、一つだけ教えて下さい。
 あれが空賊だと艦長が判断された根拠は、どこにあったんでしょう?」
 これだけは聞いておくべきだなと、リシャールはラ・ラメーを見上げた。黒でも白でも、後々問題となった時に知らないでは済まされない。
「空賊が船籍を偽装するのはよくあることですが、アルビオンの旗を掲げつつもガリアの両用艦であったことですな。
 ご存じのように、アルビオンには海がありません。
 快速とそこそこの火力が身上のフリゲートですからな、海岸線が長いというガリアのような国情でもなければ、同程度の船体ならば戦闘力が低くなる両用フリゲートは不要です」
「拿捕したフネや買い取ったフネを、お家事情が苦しいアルビオン空軍が一時的に用いている可能性はないのですか?」
 感心したようにラ・ラメーは片眉をつり上げ、にやりと笑った。着眼点は悪くない、ということだろうか。
 アルビオン空軍が先年の痛手を回復しようとなりふり構わずに忙しくしていることを、リシャールはよく知っていた。
「絶対にありえないかと問われますと、少々難しいところですな」
 口調の割に、ラ・ラメーは涼しい顔だ。頷いて続きを待つ。
「ですがあの艦が掲げる軍旗は、アルビオン本国艦隊所属艦のものであります。
 本国艦隊に警備艦隊、予備艦隊、諸侯の軍艦、民間船。
 ……分かり難い違いでしかないのですが、あの旗は本国艦隊のもので間違いありません」
 艦長の横でビュシエール副長も首肯している。
 ちなみに『ドラゴン・デュ・テーレ』と『カドー・ジェネルー』は、トリステイン船籍の民間船であることを示す、白くて長い三角形の旗をメイン・マストの頂上に掲げていた。領空海軍の発足後は、『ドラゴン・デュ・テーレ』の旗はトリステイン空海軍の軍旗に倣ったセルフィーユ独自の軍旗と取り替えることになるだろう。
「アルビオンが自国の空海軍……失礼、空軍へとかける思い入れは、トリステインのそれとは比較になりませぬ。
 他国製のものならば、同じ使うにしても警備や支援に使われているものと入れ替えましょう。
 それに……フネはおそらく、余っております。わざわざ買い入れてまで用立てることは、現状ありえません」
「余っている?」
「はい。
 表向きはともかく、アルビオン空軍に足りないのはフネではなく人の方であると、二度のロサイスへの寄港で小官は確信しております。
 この『ドラゴン・デュ・テーレ』をトリステインへと売却しておりますことこそその証左、再建中とは言え状態の良いフリゲートを簡単に手放してでも優先すべきものがあったのでしょうな。
 陸兵に比べ、水兵は教育に時間がかかります。乗組員が足りずに港で遊ばせておくよりは、運用資金にでも換えてしまう方が余程役に立ちましょう。
 資金があれば、乗組員を募集することもできますし……陸の方でも酷い戦があったそうですから、あるいは『一個連隊分のマスケット銃』との交換でも悪い取引ではないと思いますが?」
 なるほどとリシャールは頷いた。再建中の空軍が使えるフネを手放すのは確かにおかしい。
 だが、ラ・ラメーの言うように人が足りていないならば、一時的に規模が小さくなろうとも、実働状態にあるフネの数を増やすという選択肢は下策とは言えない。予算には限りがあるのだ。
 アルビオンとしては苦渋の選択だろう。ウェールズがリシャールに無理を押しつけるに至った理由としても、無理のない答えだ。
「つまりは乗組員と装備が半分の戦列艦十隻と、完全に充足している戦列艦五隻、どちらを取るか。
 アルビオンは後者を選んだわけですな」
「艦長はどちらがよいと思います?」
「そうですな……。
 艦長と乗組員の練度、装備や補給などが同程度なら、取れる作戦の幅が広い五隻の方が良いでしょう。
 ……乗組員が半分しかおらぬ艦で切り込み戦をするなど、あまり考えたくはありませんな」
 意外に真剣なラ・ラメーの言葉を聞いて、リシャールには思い至ったことがあった。正に今の『ドラゴン・デュ・テーレ』がその状態なのだ。
 主力の二十四リーブル砲が全て降ろされているので砲戦力は往事の半分にもほど遠く、それでも残っている砲の全てに砲員を回すには乗組員の数が足りない。老兵が中心で練度が高く、重荷がない分速力が早いことだけが、戦力としての『ドラゴン・デュ・テーレ』の取り柄だった。
 その上で、空賊と相対したときの勝利条件が『アン・ド・カペー』嬢の無事とくれば、足を活かして逃げることが一番の選択肢となる。
「空賊如きに好き勝手をさせるのは癪ですが、本末を転倒させては元も子もありません。
 ともかく、逃げ切ってみせます。今はそれが肝要でしょうな」
 リシャールを安心させるように、ラ・ラメーは力強く請け負った。
「敵艦までの距離、五リーグを割りました!」
「針路そのまま、後部砲門のみ開いておけ」
 船体の構造上前後を指向する砲は少ないが、船首楼と後楼に配置された大砲は追撃戦と撤退戦には欠かせない。
 これ以上は邪魔になるかと、リシャールは話を切り上げた。あとは観戦武官よろしく、操舵所の隅で立っていることにする。
「敵艦まで三リーグ!」
「信号旗上げろ! 『貴艦ノ航海ノ無事ヲ祈ル』!
 こちらが気付いていることを悟らせるな」
「了解!」
 既に相手は、肉眼でもはっきりとわかる距離に近づいていた。砲戦の開始距離は、一リーグから二リーグが標準的なものとされている。牽制や足止め、誘因が目的なら、それ以上の距離から発砲することもあり得た。フネをわざと傾けて砲に仰角をかけ、射程距離の延伸をする方法などもあるぐらいだ。
 フロランの新型砲はその点を考慮したものだったが、残念なことに持ち込んでいるのは四リーブル砲で、曲射姿勢でも上層砲甲板に元からある十八リーブル砲の方がまだ射程が長い。
「距離、二リーグを割りました!」
「敵艦、発砲!」
 ぼふん、と相手が発砲煙に包まれたのが、こちらからもよく見えた。
 砲弾は『ドラゴン・デュ・テーレ』の左手を流れていったらしい。リシャールには分からなかったが、艦長と副長がそちらを見ている。
「威嚇ではありませんな」
「まあ、初弾は当たらんと相場は決まっているが……」
 だがこれで、相手が敵であることは明白になった。ラ・ラメーが艦長でよかったと心底思う。リシャールでは、一見してフネの特徴から違和感を感じたりすることはできない。
「敵艦、停船信号を掲げています!」
「よろしい、フネを横滑りさせろ! 第二射も外させるぞ!」
「掌帆長!」
「船首帆、三番帆、右に一つ!」
 大砲に撃たれるのは、何とも言い難い不安をかき立てられるもののようだ。
 杖を向ける闘いとはまた異なる次元の、おそらくはリシャールにとって初めての『戦争』だった。今日のところは逃げるだけとわかってはいても、いらぬ感情があとからあとからわき出てくる。
 リシャールは、自らの頬を両側から思いっきり叩いて気合いを入れた。
 このフネには、アンリエッタだけでなく、カトレアとマリーもいる。『お父さん』が情けない顔を晒しているわけにはいかないのだ。
 無理矢理に近いが、心を押さえつけて目の前のやり取りに耳を傾ける。
「敵艦、第二射!」
 今度の砲弾は、風切り音がリシャールの耳にも届いた。さっきよりも近かったらしい。
 敵を見やるとこちらを妨害しようとしているのか、舳先がこちらの針路前方に向いて横腹を見せている。
「伝令! 機関室に『やれ』と伝えろ!」
「了解!」
 水兵が走ってすぐに一層下の甲板からくぐもった怒鳴り声が聞こえ、『ドラゴン・デュ・テーレ』は勢いよく高度を下げた。エレベーターのような奇妙な浮遊感がリシャールの身体をくすぐる。だがそれは一瞬でおさまった。風石機関が再始動したのだろう。
 敵の第三射はそれまでの船首砲のみの発射ではなく舷側の砲列全てを使った一斉射だったが、それらは全て『ドラゴン・デュ・テーレ』の遥か上方に外れていった。
「よろしい、このまま奴を引き離す。
 針路戻せ!」
 敵艦を見上げると回頭しているのが目に入ったが、徐々に距離は離れている。
「お疲れのようですな、閣下」
「いえ、私は冷や汗をかいて手を握りしめていただけですから」
 ラ・ラメーに声を掛けられたが、それだけを返すのがやっとだった。
 『ドラゴン・デュ・テーレ』は小刻みに進路を変えつつ、ラ・ロシェールに向けて逃走している。
 空賊は追撃を選択したらしく散発的ながら砲撃を繰り返していたが、もうほぼ命中することはないらしい。
 高度差があるので砲弾自体は届くが、舷側の砲列を使おうとすれば横腹を見せることになってますます距離が開き、船首砲のみでは必中を期待できるほど数が撃てずと、高速艦の追いかけあいとしてはよくある状況なのだそうだ。
 まぐれ当たりがないとは限らないので戦闘配置は発令されたままであったが、艦長らも緊張は解いていた。
「初陣はまだであられたか?」
「亜人の討伐と盗賊の捕縛がそれぞれ一回、それだけです。
 フネでの戦いは初めてですね」
「ふむ。
 ……少しご休憩なさいますか?
 敵艦も追っては来ていますが、こちらの方が優速のようです」
「ええ、お言葉に甘えさせて貰います」
 艦長の物言いは、歴戦の先任軍曹が初陣同然の見習い士官を気遣う類のものであろう。リシャールは内心で感謝し、素直に従うことにした。
 まだ全身の筋肉がこわばっているのを自覚していたが、平常心は取り戻しつつある。一息ついて、ようやく肩の力が抜けつつあった。義母に睨まれたときとはまた違う感覚だ。……あれが戦闘なら、こちらは戦争でここは戦場だった。ましてやこれは、訓練ではない。
 リシャールは戻りがてらにアーシャを一撫でしてから、貴賓室に足を向けた。

「リシャール!」
「リシャール、もう大丈夫なの?」
 下層砲甲板に設けられた貴賓室まで降りると、不安そうなアンリエッタとカトレア、それに少しばかりご機嫌斜めなマリーに出迎えられた。マントをヴァレリーに預け、背後に控えるジャン・マルクとアニエスに向けて頷く。
 二人の顔を見て少しだけ力が抜けたようで、身体のこわばりはもう感じない。
「もう大丈夫みたいです。空賊は遠ざかっていますよ」
「そう、良かったわ」
「一応、戦闘配置は……」
 リシャールが注意を喚起しようと口を開きかけたその時、大きな音と共にフネが震えた。ついでにぎしぎしと船体が軋む音まで響いてくる。
「何事!?」
「アニエス、『アン』様を!」
「はっ! 失礼!」
 アニエスとジャン・マルクはアンリエッタに、リシャールはマリーを抱いたカトレアに覆い被さった。カトレアにはマントを握ったままのヴァレリーが更に被さり、背中を守っている。
「リシャール様!
 部下を全員ここへ呼び、念のため円陣を組んで守りを固めたいと思います!」
「許可します!
 アルビオンの客人もこちらへ!」
「了解!」
 ジャン・マルクが扉を開け放って緊急呼集を叫び、室外が慌ただしくなる。階上からも大きな足音が響いてきた。
 入れ違いに、息を切らせた水兵が駆け込んでくる。
「伝令! 発、艦長! 宛、子爵閣下! 『後楼被弾、されど航行に支障なし』!
 以上であります!」
「こちらの守りの指示を出してから、すぐに戻ります!」
「了解!」
 ラ・ラメーは、甲板に上がるようにとは言ってこなかった。
 だがそれは、言葉通りの意味ではないだろう。甲板や操舵所にいても、何を出来るというわけではない。船乗りとしてのリシャールは、新米水兵にも劣るはずだ。
 しかし。
 リシャール・ド・セルフィーユは、セルフィーユ子爵家の当主であった。
 貴族として、当主として、戦いから目を背けてはいけない……などという貴族の倫理感には余り共感を持ってはいない。人の目があるからとか、カトレアにいいところを見せたいなどといった見栄も、今はない。
 だが、別の気持ちがリシャールを動かしていた。自分は総てを預かる『責任者』なのだ。店の危機に対応しない店長に部下がついてこないのと、領主と部下の戦場に於けるそれを同列で語るべきかは分からないが、そう的外れでもないと感じている。
 もちろん、ここにいて皆に守られるという選択肢もある。子供の外見に甘えてしまえばいい。十五の子供が戦を恐れたとて、誰も責めはしないだろう。しかしそれは、安全ではあっても決して魅力的ではなかった。
 何故ならば、ここには愛妻と愛娘がいるのだ。それにアンリエッタを守り通さなくては、この場は切り抜けられてもセルフィーユ家に未来はない。
「リシャール……」
「行って来るよ、カトレア、マリー」
 カトレアをぎゅっとマリーごと抱きしめる。彼女は少し震えていた。
 ……でも、あたたかい。とてもあたたかい。
「あぶー!」
「あはは、ごめんごめん」
 二人に挟まれたマリーは苦しかったのか、抗議するようにリシャールの髪に手を伸ばしてきた。
 少し痛いが、やはり心地よい。
「大丈夫。
 なんとかなる……じゃなくて、なんとかするよ」
「……はい、わたしの『王子様』」
 先ほどの操舵所で十分に緊張と不安を味わっていたからか、あるいは家族の顔を見たからか、リシャールは常の自分を取り戻していた。しっかりしないといけないと、自分を鼓舞してもいる。『お姫様』から期待されては覚悟も決まらざるを得ないし、口に出した以上後には引けなくなった。
 ではどうするか?
 ここは半ばアーシャ頼みになるが、自分が行くしかない。敵艦を逆撃して帆柱の一本でも折ってやれば、それだけこのフネは安全に近づく。それはアンリエッタの、ひいてはカトレアとマリーの無事に繋がる。
 リシャールはカトレアの唇とマリーの頬に口づけをし、アンリエッタに向き直った。彼女も不安そうな顔をして、少し青くなっている。それをアニエスが支えていた。
 良いか悪いかは別にして、自分より不安そうな相手を見れば人間落ち着くものである。しかし、彼女を不安なままにさせておくのもよろしくない。彼女はリシャールとは違い、真の十五歳の少女だ。リシャール以上に責任のある立場が将来待っているとしても、今はまだその時ではない。
 リシャールはアンリエッタに向かって、大仰に礼をしてみせた。
「リシャール……」
「『アン』、大丈夫ですよ」
「でも……」
「このフネにはハルケギニアでも屈指の名艦長と、トリステイン史上最強の騎士……の弟子が乗っております。
 空賊なんかに、好きにはさせません」
 普段ならば絶対に行わないような大言も、この場この時ならば口に乗せる意味がある。
 道化であることを自覚しながらも、リシャールは堂々と胸を張って見せた。

 念のために水の秘薬なども用意させ、ジャン・マルクに貴賓室まわりの指揮を一任したリシャールは、一旦は預けたマントを再びまとって階段を駆け上がった。司令室は通らずに、上甲板に直接出る。
「きゅいー!」
「アーシャ、大丈夫だった?」
「きゅ!」
「うん、よかった。ごめん、呼ばれてるから後でね!
 艦長、お待たせし……!?」
 司令室の上、後楼にあった右舷の船縁と手すりは、根本を残して綺麗さっぱり消えていた。先ほどの大きな音の正体は、これだったのだ。周囲には僅かながら血が流れている。
「閣下、少しばかり拙いことになりました」
「艦長!」
「まぐれ当たりですな、あの距離で船体に直撃させるなど……。
 折れたところから放棄せざるを得ませんでした」
 敵艦は先ほどよりも遠ざかっているが、それでも裸眼で確認できる距離だった。砲撃も続いているようだ。
「怪我人は?」
「破片で三人ほどやられました。
 重傷ですが、命に別状はありません。既に治療させています」
 ラ・ラメーは渋面をつくった。
「貴賓室周りはジャン・マルク隊長に後を任せました。
 救護所としても使うように指示してあります」
「万が一船医だけでは間に合わなくなった場合、そちらにお願いします」
「はい」
「それにしても……」
「はい?」
 珍しく歯切れの悪い口調で、ラ・ラメーはリシャールを見やった。
「随分と諦めの悪い奴ですな」
 もう一度、敵艦から発砲煙が上がる。
「雲が多いか、視界の悪い黎明や夕暮れならばともかく、昼日中にロサイスからそう遠くないアルビオンの領空内でこの騒ぎ。
 普通、空賊はもう少し遠慮します」
 敵艦から視線を転じたリシャールは、そういうものなのかとラ・ラメーを見上げた。空賊事情の詳細までは知らないが、確かに大手を振って行うような稼業でないことは考えなくともわかる。
「もう一つ、気になることがあります」
「……伺いましょう」
「こちらは時間が惜しいので、スヴェルの月夜も気にせず風石を大盤振る舞いして力任せに航路を進んでおります。
 次にアルビオンがラ・ロシェールに近づくのは三日後、ここを通るフネはその日の方がずっと数が多い。
 哨戒のフネも多少は出ますが、獲物も多いと言うことですな」
 双月が重なるスヴェルの月夜は、浮遊する大陸アルビオンがもっともハルケギニアの大地に近づく日である。必然的に消費する風石が少なく済むので、割増料金が余計に稼げる急ぎの荷でもない限り、商船はこぞってこの日にフネを出す。海賊にとっても稼ぎ時なのだ。
「それにこちらは元フリゲートです。
 大概の軍艦は払い下げの時に武装を降ろしてしまいますから、そのあたりはあちらも想像はつけているかもしれません。
 しかし、いくら向こう見ずな空賊共でもフネを見れば足が速いことぐらいは一目瞭然のはず。
 あちらもまあ、空賊としては足が早い方でしょうが、もっと足の遅い、見ただけで商船とわかるフネを待ちかまえた方が余程楽に稼げますな。
 それをわざわざうちのフネを追いかけるとなると……」
 ここまで言われれば、リシャールにも分かった。分かりたくないが、分かってしまった。
「狙いは『アン・ド・カペー』嬢、ということですね?」
「はい、間違いないでしょうな」
 リシャールは額に手を当てて、大きなため息をついた。
 政争や陰謀には、なるべく巻き込まれないようにしたいとは思っていた。アンリエッタにウェールズ、マザリーニ、そしてカトレアの実家ラ・ヴァリエール家。国家に影響を与える立場にある人物が、リシャールのまわりには沢山いる。その影響力と庇護のおかげで今の自分があるのだが、ここにきてツケを一気に取りたてられている気分だった。
 いや、悩んでいても仕方がない。詮索は後ほどでいい。ツケはきっちり払えばいい。
 とにもかくにも、足を活かしてラ・ロシェールに素早く逃げ込むのが得策だった。
 港までの距離は未だロサイスの方が近い。だが、相手に頭を取られている上に先ほど高度を喪ったことが戻ることを不可能にしていたのである。
「まあ、どこからどうやって漏れたとか、それは今考えても仕方ありません。
 面倒事は、帰ってから王都の偉いさんに丸投げしましょう」
「はい」
 相手も船体は両用フリゲート、足はそれなりに早いようで、更に十五分ほどかけてようやく二リーグほどに引き離したが、未だにこちらを追って散発的な砲撃を繰り返している。
 ラ・ラメーも流石に定速に定針ではまぐれ当たりの確率が増すと考えたのか、話の合間に幾度かの転舵や上下動を命じていた。
「このままラ・ロシェールまで我慢比べだといいのですが……。
 複数の空賊が連携している可能性も、考えておいた方がいいかもしれません」
 王政府から身代金を取るにしてもどこかへ売り飛ばすにしても、大国の王女ともなれば相当な金額になることは想像に難くない。連携してもお釣りが来るだろうし、抜け駆けも出来よう。まったくもって碌でもない想像だが、アンリエッタほどの高値はつかなくともリシャールやカトレア、マリーも十分に良い値で売れるはずだ。
「しかしながらですな、閣下」
「はい?」
「このラ・ラメー、片手の指の数までのフネが相手ならば、この『ドラゴン・デュ・テーレ』を沈めるようなことには致しませぬ」
 気負う様子もなく、ラ・ラメーは宣言して見せた。彼の、フネを預かる者としての気概や資質がそうさせているのだろう。ならばリシャールも、それに応える必要がある。
「はい、艦長。
 ……そう言えば、先ほど貴賓室で艦長の名前をお借りしたのですよ」
「ほう?」
 不思議そうにも楽しそうにも見える顔で、ラ・ラメーは続きを促した。
「このフネにはハルケギニアでも屈指の名艦長と、トリステイン史上最強の騎士の弟子がおりますからと、『カペー』嬢の前で大見得を切ってまいりました。
 おかげで少しは安心していただけたと思います」
「ふむ、ご婦人方の期待には全力を以て応えねばなりませんな。
 ……しかし、トリステイン史上最強の騎士ですと?
 これはまた大きく吹きましたな、閣下?」
「ふふ、『弟子』ですよ、『弟子』」
 子供子爵らしい大言と思われているのか、はたまたリシャールに場を気遣う無理をしていると見抜かれているのか。にやにやと、艦長だけでなく周囲を囲む士官らも笑っている。だがそれでいいのだ。
 戦慣れした彼らには不要なことかもしれないが、これもまた責任の一つであるとリシャールは思っている。いや、老兵達の方がそれらを分かった上で、つき合ってくれているのだろう。
 人心掌握や士気高揚などという、野暮なものも含まれるかも知れない。彼らにとって、リシャールは領主として絶対者に近い存在であり、リシャールにとっては自身だけでなく、妻子やアンリエッタの命を預ける相手であった。
 同じ御輿でも、多少なりとも担ぎ甲斐がある方がいいに決まっている。
「でも、艦長」
「はい?」
「『烈風』カリンがトリステイン史上最強の騎士というのは、嘘じゃありませんよね?」
 一瞬だけ、リシャール以外の笑顔が引きつった。自分も詳しくは知らないが、艦長らとは空と陸で畑違いとは言えども世代は同じであり、噂話ぐらいは知っている筈だった。若干微妙な空気が漂う。
「まあ、それはともかくですね、少し考えてみました」
 リシャールは場が収まったのを見届けて話を続けた。
「私とアーシャで、空賊の足を止めに出ようかと思います。
 それで艦長、あの両用フリゲートは艦底側が死角と見て間違いないでしょうか?」
「……よろしいのですか?」
「はい」
 リシャールが返事をしてからも艦長は暫く黙っていた。部下ではない、力量が未知数の相手故の葛藤があったらしい。
「……少なくとも砲の死角であることは疑いありません。
 しかし、舷側や砲門からメイジが半身を出して魔法を放つこともあります。
 十分に注意して……」
「敵艦から何か飛び立ちました!」
 艦長の説明を遮るようにして、操舵所の背部で仕事に励んでいた見張りが声を張り上げた。
 数は三。
 まだ距離があるのでよくわからない。少しいびつな形をした竜、いや、人型に翼を持った何かに見える。翼人だろうか。
「ガーゴイル……!」
 素早く望遠鏡を構えたビュシエール副長が報告する声は、かすれていた。







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