ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
第八十八話「敵影」




 滞在も六日目、今日で最後となるロンディニウムの城で、リシャールは新たな商談を受けていた。エルバートの口利きで、彼が懇意にしている商人に生け簀が売れたのである。
「では子爵様のご帰国に際しまして担当の者を同乗させて頂く件、よろしくお願いいたします」
「ええ、それはもちろん。
 ……しかし、本当によかったのですか?
 エルバート殿からお聞きになられているかもしれませんが、生け簀本体はそう大した金額にもならなくとも、実際に運用するとなると利益の方はほぼ期待できないと思いますよ?」
「はい、ブレッティンガム男爵様からも、そうお伺いしております。
 しかし魚の扱いについてはロンディニウム一を自負する当商会といたしましては、これは乗り遅れるわけには行かぬと判断致しました」
 話を聞けば自前の商船を有しているらしく、そこに移動生け簀を設置するようだ。ラ・ロシェールとロンディニウムを定期的に結ぶフネと魚を売る為の販路があるのならば、仕入先を巻き込む一手間はあっても、自分のように船代や給金がどうのと悩む必要はない。
 これは一本取られたかなと、リシャールは頭を掻いた。エルバートの手前もあって、実費に加えて関税に絡む諸費用を上乗せしただけで契約を結んでいたからだ。吝嗇家だと評判を落としたくはない。
 しかし商談が終わってから、知恵を貰ったと気付いてそちらで相殺しておくことにした。この商会同様、自分もトリスタニアとセルフィーユを結ぶ予定の定期船を所持しているのである。運航は決定したが、元より積み出せそうな荷も決まっていない『カドー・ジェネルー』号だ、仮に現在の王都往復便に投じられている荷馬車全ての荷を引き受けたとしてもまだまだ余裕はあるだろう。
 帰国後、デルマー商会のシモンにでも相談をして利益が出るかどうか試用期間を設けて試してみようかと、少し気分が上向いたリシャールだった。

 次いで最後の大仕事とまでは言えないが、ジェームズ王とウェールズ皇太子に挨拶を済ませることになった。大方、ウェールズはアンリエッタの見送りを希望して港まで同行してくるだろうとリシャールも他の者も思っているが、口に出すのは野暮である。
「陛下、殿下、手厚い歓待を頂戴しましたこと、一同大変感謝しております」
「うむ。
 我が息子も、そちらでは大変世話になったと聞く。
 礼になったのであれば幸いであるな。
 ……そうであった。
 ウェールズ、あれをセルフィーユ子爵に」
「畏まりました、陛下」
 ウェールズは父王に頷いて、リシャールへと一枚の書面を差し出した。
「リシャール君、実は今度、トリステイン国内に新たな在外公館を出すことになってね。
 候補地はいくつかあったんだが、トリステイン王政府とも相談の結果、マスケット銃の件もあってセルフィーユに決まったんだ。
 今後ともよろしく頼むよ?」
「は、はい、殿下」
 また面倒事かあ、とは顔に出さず、リシャールは書面を受け取った。そこには既にジェームズ王とマリアンヌ王后の御名が記されており、アルビオン王国在トリステイン大使館セルフィーユ分館の開設に関する合意と表題が書かれている。
 もしかしなくとも、『アン・ド・カペー』嬢が密使として仰せつかった任務の一部だったのかもしれないと、リシャールは一連の流れを俯瞰して考えてみた。今の段階ならば内容は二の次、政治や外交の空気に慣れることが彼女にとって一番の任務であろう。セルフィーユへの公館設立などは王家にしてみれば些事に過ぎないはずで、他者に露見したところで当事者も含めて誰も後ろ暗いところはない。むしろこの影で何かが行われていると考える方が、話の流れとしては整合性が取れている。
 その後ろ側までとなると今のリシャールには必要ないが、憶えておいて損はないかも知れない。中身については詮索を控えた方がよいことしかわからないが、それで十分だった。
 王政府内部の意見は様々に過ぎるのでともかくも、今回の件で、少なくともマリアンヌ王后はアンリエッタを飾り物にしたくないと考えていることがわかった。リシャールとしては自分の身の振り方にも関わるので、マザリーニの本音と希望も聞いてみたいところである。
「今後のセルフィーユの進展によっては格上げすることもあるかもしれないが、当初は書記官と下働きだけの小さなものだ、実質、私との連絡役みたいなものだと思ってくれていい」

 アルビオンならば、玄関口であるロサイスに最も近い港湾都市で自国に向かうフネの殆どが立ち寄るラ・ロシェールには、トリスタニアにある大使館よりも大きな領事館を置いているし、各国共に、地方の中心地や貿易面から無視できない都市には領事館や分館、出張所を出すことは少なくない。
 大使館などは国を代表する外交の窓口として相手国の首都に置かれるが、地方都市に置かれる公館などは貿易に絡む利害の調整役として期待されることが多かった。他にも、一般的な地域情報収集の拠点として使われたり、場合によっては傭兵を集める募兵所としても機能する。
 ないと困るが格式よりも実務を要求される場合などは、費用を圧縮する為に官吏の公舎には宿屋の一室を用立て、ギルドや庁舎の一角を間借りして間に合わせることもあった。逆に政治的経済的に大した意味もなく国外の保養地に建てられた、付属する公邸が妙に大きい領事館など、大貴族の腰掛けか貸別荘の為に用意されたような在外公館も存在する。
 それでは、セルフィーユに於いて考えられるアルビオンの在外公館の役割とは何か。
 リシャールの見るところ、先にウェールズが口にしたマスケット銃云々以外にも今後発展するであろうトリステイン北東部の拠点として、また、アンリエッタとウェールズの私的な接点の一つとして期待されているのではないかと予想できた。

「実務の方は赴任する彼に一任してあるのでね。
 ……君、メイトランドをここに」
 傍らに控える騎士にウェールズが頷き、すぐに二十代後半に見える官僚が案内されてきた。若手のやり手か、はたまたどこかの御曹司か判断に迷う。両王家が直接介在しているので、逆に見極めが困難なのだ。
「お初にお目に掛かります閣下、オーブリー・メイトランドです」
「よろしくお願いします、リシャール・ド・セルフィーユです」
「彼は軍官僚でね、銃にも詳しいんだ」
 なるほど、新型マスケット銃目当ての囲い込みかなと思わないでもなかったが、今後も安定した大口の注文を期待出来そうな顧客に対するサービスかと考えれば、そう悪いものでもないはずだった。
 何せアルビオンは、トリステイン、ガリアと並んでハルケギニアでも三国しかない始祖の正統な血を引く王家を戴く大国だ。面倒も多いだろうが、現在トリステインとも良好な関係が維持されているから、余計な横槍は入りにくいとも思える。
 だが、もしも次回の注文があれば現金か小切手での決済を願い出ておかないとうちが破産するなと、リシャールは気を引き締めた。
「メイトランド殿、私は今日中にロンディニウムを出立の予定ですが、あなたも乗船なさいますか?
 ご家族や部下となられる方がご一緒でも、数名ならば問題なくお乗りいただくことが出来ますが……」
「いえ子爵閣下、失礼ながら本日はご挨拶のみとさせていただきます。
 決定が昨夜とあって、正式な辞令はまだ受けておりません。
 引継や設立の準備もありますので、来月か再来月、セルフィーユへと赴任の予定でございます」
「わかりました、無事の到着をお待ちしております」
 政府間の話も、実務的な内容までは決まっていないのだろう。正式に決まればリシャールの元にも人員や規模が通達され、立地の選定や設立の世話をすることになる。アルビオンとの関係は彼を通して維持されていくことになるはずだった。情けない話だが、本当に単なる窓口で済みますようにと願わざるを得ない。

 他にも、セルフィーユ家にて料理人を預かるよう正式に依頼されたり、わざわざ王城に出向いてきたクーテロ大使やエルバートと挨拶を交わしたりと、帰国前の雑事を片づける頃にはもう昼前になっていた。夕方前にはロンディニウムを出立する予定で、『ドラゴン・デュ・テーレ』の方でも準備が進められている頃だろう。
 リシャールはと言えば、カトレアと二人、城で用意されたロンディニウム滞在最後の昼食を食べながら今回の旅行を振り返っていた。
「また遊びに来られるといいね。
 僕らは十分に旅行気分を楽しめたけど、流石に……マリーには思い出にならなかっただろうからなあ」
 そのマリーはお昼寝の最中だった。離乳食には少し早いが、起きているなら食事時はなるべく一緒にいるようにしている。
「ええ。
 でも、すぐにやんちゃ盛りまで育ってくれるはずよ。
 ルイズだって、産まれたと思ったらあっという間に大きくなったもの」
「うん、違いない」
 リシャールは無意識に頷いたが、彼とルイズとの歳の差は一つであった。そのことに気付いたカトレアがくすりと笑う。
「マリーがもう少し大きくなったら、また三人で旅行に行こう。
 今度はガリアかゲルマニアでもいいね」
「ゲルマニアなら、キュルケに会えると嬉しいわ。
 マリーにも是非会いたいって、お手紙にも書いてくれていたもの。
 彼女、春にはヴィンドボナの魔法学院に入学するんですって」
「じゃあ、お祝いでも持って遊びに行こうか。
 来月中なら大丈夫かな?」
「ええ、そのはずよ」
 この旅行が終わって少し落ち着いたら、時期を改めて検討すればいい。日数もそうはかかるまい。
 『ドラゴン・デュ・テーレ』の貴賓室には、解体前にもう一仕事して貰う必要がありそうだった。

「ウェールズ様……」
「アン……」
 別れを惜しむ二人を引き裂いて……とまで言うと自分の役割や存在が愚かしいものに思えてしまうが、出立の時間は動かせない。それでも二人が次に会えるのは遠い先になることだけは分かっているので、カトレアや、同じく見送りに出てきたエルバートらと苦笑しつつ見守る。
「しかし、ようやくご注文の品をお納めすることが出来て、肩の荷が下りましたよ。
 これで晴れて、二隻とも私の物だと胸を張ることが出来ます」
「はっはっは、リシャール殿は律儀ですな」
 実際には余計に銀行から借りた借金や、膨れ上がった領空海軍の維持費などの心配事もあるが、少なくともアルビオンに対する負債はこれで消えた。他にも街道工事や祖父らへの借財なども残っているのだが、こうして『少しづつ』歩みを進めて行くしかない。
「リシャール殿、次回の訪問を楽しみにしておりますぞ。
 ああ、もしかすると、そちらに遊びに行かせて貰う方が先になるやもしれませぬが」
「ふふ、その時はもちろん大歓迎いたしますよ」
「閣下、失礼いたします。間もなく出航時刻であります」
 ラ・ラメーが声を掛けたのを機にエルバートとの話を切り上げ、アンリエッタらに向き直る。気乗りのしない役目だが、こればかりは誰も代わってくれそうになかった。
「お二方、間もなく出航いたします」
 ウェールズは頷いてくれたが、アンリエッタからは少しばかり恨みがましい視線を貰う。
「アン、いや、アンリエッタ。必ずまた会えるよ。
 ……『風吹く夜に』」
「『水の誓いを』。
 ええ、もちろんですわ、ウェールズ様」
 ぞろぞろとフネに乗り込んだ皆の視線が集まる中、ウェールズは実に優雅な仕草でアンリエッタの手に口づけをした。
 頃合いと見てリシャールがラ・ラメーに視線を送る。
「副長、全艦に出航を告げよ!」
「はっ! 出航告げます!」
 ビュシエール副長が声を張り上げ、水兵らはマストを駆け上がり、あるいは帆綱に取り付き、フネに命を吹き込み始めた。
「あの、閣下……」
「あー、うん……」
 こちらに走ってきた渡し板担当の水兵が、困った顔でリシャールを見上げている。アンリエッタがまだ桟橋側にいるのだ。
 やれやれ。
 リシャールは一度戻った渡り板を、桟橋へと歩き始めた。

 無事に出航した『ドラゴン・デュ・テーレ』は、目的地であるロサイスよりもやや西に偏ったの進路をとった。
 地域、地形、時刻に季節、そして天候。
 専門職ではないリシャールにはよくわからないが、効率の良い航路というものが知られていて、例えば、行きと帰りでは航路が大きく違う。季節によって大体決まっている、ある地方、ある時刻の風は、おおまかな風向は同じでも、山塊を挟んだ西と東では風向きが異なるものだという。
 あまりにも風の複雑な航路を急ぐ場合、例えばガリアの火竜山脈の峠越えなどでは、風読みに長けた水先案内人を雇うこともある。風石と時間の消費に目をつぶって山風の影響を受けないほどの高空へと昇る手もあったが、寒い上に操帆に影響が出るほど風も強かった。
 出航のどたばたが終わったリシャールは、後楼にある司令室に顔を出すことにした。
 先ほどまではアンリエッタの消沈を受けたのか、マリーが珍しく泣き出して慌てていたが、おかげでアンリエッタの機嫌が多少直ったから、何が幸いするかわからない。マリーには頬にお礼の口づけをしてカトレアらにあとを任せ、貴賓室を出てきた。
「お疲れさまでしたな、閣下」
「いえ、これも仕事のうちですから」
 ラ・ラメーからにやりと笑顔を向けられる。
 小さなコルベットや商船では、艦長以下副長、航海長、操帆長、甲板長、露天の指揮所で皆仲良く吹きさらしだが、幸いそれなりの大きさを誇る『ドラゴン・デュ・テーレ』には司令室がある。
 航海中に艦長が常駐する司令室にはガラス窓こそあったが大きなものではなく、細い覗き窓のついた防弾板を内側からはめ込めるようになっていた。操舵所は後楼の上部、司令室の上に据えられているが、そちらは普段当直の士官と水兵が操艦に当たっており、入出港時や戦闘時にはラ・ラメーらもそちらに移動する。
 フネの司令室と言えば、リシャールなどは木製の大きな舵輪と視界の開けたガラス窓のある艦橋を想像していた。しかし、木造帆船が幅を利かせているハルケギニアのフネには、時代が早すぎたようである。これまでに見た『アンフィオン』や『サン・ルイ』などの、最新鋭の部類に入るはずの各国の軍艦にも統合された艦橋はなかった。
 『ドラゴン・デュ・テーレ』では、航路図が置かれている司令室は後楼内、舵輪のある操舵所は露天、風石機関は艦内各所に分散しており、戦時には二層の砲甲板も命令を待つことになる。更に見張りはマストの上と甲板の前後左右に配置されており、相互の連絡には水兵服についたカラーを立てて大声で叫びあうか伝令が走り回って用を為した。
「飲み物をお持ちしました」
「うむ」
 無事に出航を終えて一息というところだろうか、司令室に詰めている士官だけでなく、リシャールにもカップが手渡された。塩と蜂蜜の入った香茶だ。
 貴賓室ではヴァレリーらがいるし、アンリエッタの手前もあって普通の香茶が出てくるが、リシャールも司令室へとやってきた時にはこの空海軍伝統の味のご相伴に預かっていた。『クーローヌ』で塩入りの飲み物を出されたことはなかったが、どうやらラ・ラメー艦長の好みに合わせてあるようだ。慣れると悪い味ではないし、海図台の菓子盆に置かれた割れたビスケットとも相性がいい。
「この分ですと、予定通り翌々日早朝にロサイスへと入港出来ます。
 ラ・ロシェール、王都トリスタニアを経由したとして、セルフィーユへの帰港は五航海日後ですな」
 寄港地なしでセルフィーユへと直行するなら、まだまだ短くできるだろう。だが、王宮へと無事にアンリエッタを送り届けてこそ、今回の任務は終わるのだ。リシャールも王都を素通りというわけには行かない。
「艦長、私は王都で別の用が入る可能性もあります。
 長引くようならば、先にセルフィーユへと帰って貰った方が良いかもしれません」
「ふむ、閣下の御用が期間不明とあれば、ロサイスでは風石をたんまり積んでおきますか?」
「はい、少し高くはつきますがそうして下さい」
 風石はありがたいことに腐ったりしない。余ればセルフィーユに着いてから降ろせばいいかと、リシャールは頷いた。
「閣下、時間がおありでしたら訓練空域の件を詰めておきませぬか?
 ラ・ロシェールに寄るついでに空海軍司令部にねじ込んでおけば、手間が省けます」
「ああ、それもありました。
 今から……の方が助かります。帰れば庁舎の方に缶詰になってしまう予定ですから」
「そちらこそが閣下の本業ですからな。
 ……おい、新しい方のセルフィーユ付近の航路図を」
「はっ!」
 海図台の上に、記号や数字の書き加えられた軍用地図が広げられる。使い物にならないとまでは言わないが、リシャールの知る現代の地図に比べて幾分甘い出来だ。
 だが、実際はこれで十分だった。領軍を動かすにしても、数メイル単位で命令して兵士や大砲を配置したりするわけではない。徴税や土地の貸借にしても、現場での線引きが明確であればさほど問題にはならなかった。世の中が、まだまだ緩くできているのだ。
 魔法はあっても精密機器のない世界である。
 あれば便利だろうが、世はそれを想像さえしない。リシャールはその緩さの隙間を突いて随分と利を得ているのだから文句は言えないが、電卓の一つでもあればと思うこともしばしばである。算盤などは仕掛けを説明して職人に作らせることも可能だろうが、哀しいかな、リシャールには足し算と引き算以外の使い方がわからない。これでは大して意味はないし、石玉を溝に置いて計算を補助する道具はこちらにもある。桁の大きな計算は、石板や古紙を用いて筆算するのが普通だった。
「概略ですが、こちらで検討した幾つかの案をご説明いたします。
 まず、領空海軍単独での訓練ですが、これはゲルマニア航路の向こう、漁船も漁に出ない遠方までフネを進めた方が良いでしょうな。
 領軍との共同訓練は、砲を使わないならば練兵場での降下訓練程度が関の山です。
 攻城戦や制圧の訓練は、御領地の一部を別にお借りして……」
 リシャールはラ・ラメーの話を注意深く聞きながら、フネは船でもありながらヘリや飛行機のようにも使われるのだなと、頭を巡らせていた。後半はそれこそ指導する上官と候補生のような雰囲気にもなっていたが、二人ともそのことには気付いていなかった。
 
 船中で二泊したその翌日、ロサイスで臨検と補給を済ませた『ドラゴン・デュ・テーレ』は、白い崖が連なる絶景を後目にアルビオンと別れを告げ、次の目的地であるラ・ロシェールに向けて針路を向けた。
「本当に良い眺めでしたわね、カトレア殿」
「ええ、行きは夜のうちに過ぎてしまったから、リシャールにお小言を言ってしまいましたもの」
「あうー、あ、あ」
「あら、マリーも気に入ったかしら?」
「あわー?」
 談笑する女性陣に笑顔で断りを入れてから、リシャールは司令室へと向かった。フネの仕組みや使い方についてあれこれと質問をするよい機会でもある。ラ・ラメーには、戦時に呆れられるような命令を発さないためにフネについての常識はある程度知っておきたいのだと、胸の内を正直に話してあった。自身の能力や見識について、教えを請う立場の者が飾っても利のないことはよく知っている。
 元より領空海軍について一任する予定であっても、知っているのと知らないのとでは、過程にも結果にも差が出よう。また、リシャールの理解が深まれば、新たな運用法を検討することも出来る。
「ようこそ、閣下」
「今日もよろしくお願いします、艦長」
 走り書きに使う筆記具を海図台の隅に置き、リシャールは艦長の前に陣取った。昨日は訓練空域についての話し合いが終わってから、中座して筆記具を取りに戻ったのだ。
 幸い士官は皆経験を積んだ壮年から老境の者ばかりで、士官候補生が居ないからこそリシャールの我が侭にもつき合って貰える。何れは若手の水兵の中から見所のありそうな者を選んで航海士や士官候補生として相応の教育を施すことになる予定だった。
「そういえば……」
 艦長が口を開きかけた時、甲板に通じる扉が叩かれて年若い水兵が走り込んできた。
「伝令! 前方十一時、きょ、距離三十に所属不明艦一、商船ではありません!」
「よろしい。続報を待つ」
「はいっ!」
 昨日も幾度かあったが、トリステインやアルビオンの軍艦であれば、挨拶に信号旗を掲げてすれ違えばいい。
 だが、万が一にも空賊であったならば、接近を許すのは得策ではなかった。このフネにはアンリエッタ姫が乗船しているのだ。
 ラ・ラメーは過剰な警戒かもしれませんがと笑っていたが、それで済むなら安いものだとリシャールも思っている。翌日支払う予定の大金を懐に入れているような気分だ。面倒でも安全には代えられない。
 仕事の邪魔をするわけにはいかないなと、リシャールは壁際に下がった。
 ちらりと横を見ればラ・ラメーも少しばかり厳しい顔つきだが、待つことしばし、再び別の水兵が走り込んできた。
「伝令! 所属不明艦はアルビオン艦、艦種フリゲート! 距離は十五!」
 司令室内の空気が緩む。問題ないようだ。
「副長、信号旗用意。自分は操舵所に上がる」
「了解!」
 艦長は壁に掛かった外套を一つつかみ、リシャールを振り返った。
「閣下、識別の実地訓練などいかがです?」
「お供します」
 リシャールも上に何か羽織るべく、一度自室へと戻った。
 手早く厚手のマントを用意する。それを身に纏いながら通路を走って甲板に出ると、後楼上部の操舵所へと素早く駆け上がった。後楼手前にとぐろを巻くようにして寝ていたアーシャの顔がこちらを向くが、頷くに留める。
「閣下、フリゲートの位置はわかりますかな?」
「はい、えーっと……」
 十一時の方向と最初の伝令が報告していたなと、時計の文字盤を思い出しながら前方やや左を注視する。雲間に黒点があってそれがフネだろうということはわかったが、距離が遠くてそれ以上は分からない。
「ああ、見つけました」
 指を差して艦長に確認を取ると頷きが返され、控えていた水兵がどうぞと望遠鏡を差し出す。
「もう少し近づけば詳細が読みとれますから、それを使って小官に報告してみて下さい」
「はい」
 借りた望遠鏡をのぞき込み、筒の長さを調節して焦点を合わせてみると、細身の艦体に三本マストのフネが視界に入った。見えるままに報告する。
「マストは三本で……それから、確かに細身のようです。
 軍艦旗はアルビオンのものですね」
 それなりに揺れるので、望遠鏡の保持が上手くできない。リシャールは船縁に身体を預け、望遠鏡を手すりに押しつけた。
 格好は悪いがこれだけで随分見やすくなる。艦長は片眉を僅かに上げたが、口に出しては何も言わなかった。
 風は西風で、航路は風に直交していた。こちらも向こうも互いに横風を受けているので、相対速度がものすごいことになっているのか、急速に距離が縮まる。おかげで向こうの横腹も僅かに見えてきた。
「続けます。
 えー、砲甲板は一層、片舷の砲門は十……っと失礼、十六、それから」
 少し躊躇ったが、間違えていても艦長による訂正と指導が入るかと、リシャールは報告を続けた。
「おそらくは、両用船舶……いえ、両用フリゲートかと思われます」
 同じ一層フリゲートでも、『カドー・ジェネルー』はあれほど高い位置に砲門の列を設けていない。園遊会でウェールズに連れ回されて各国軍艦の見学を繰り返したおかげで、落ち着いてきちんと観察すれば多少は区別がつけられるのだ。
 リシャールは望遠鏡から視線を外し、ラ・ラメーの方を振り返った。若干恐い顔で近づいてきた艦長に望遠鏡を手渡す。
「失礼。
 む……確かにあの配置は両用フリゲート……いや、マストの軍艦旗はアルビオンだが……。
 しかし船首楼のあの反り……それにマスト頂部の見張り所の型式は……。
 ビュシエール!」
「はっ!」
 望遠鏡が、ラ・ラメーからビュシエール副長の手に渡った。
「ビュシエール、どう思う?」
「……小官にも両用フリゲートに見えます。
 それもガリアの『ル・テメレール』級か、その後継の『レオパール』級あたりかと」
 艦長は頷いて、大声を張り上げた。

「総員戦闘配置! 非戦闘員は艦内へ! 砲門はまだ開くな! 急げよ!!」







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